アメリカの有名スポーツ団体は、以下のような方針を掲げている。そのグループの目指すところは、「健全な社会性、鍛練された人格、チームワーク、そして身体の健康を育むよう支援する」ことだ。

また、次のようにも公約している。「我々は神を信頼し、祖国を愛し、我が国の法令を守る。公正に行動し、勝利に向かって努力するが、勝ち負けに関わらず、最善を尽くす。」

高い評価を受けるこの団体が掲げる方針に、賛同しない人はほとんどいないだろう。その価値観は社会性、秩序、チームワーク、唯一神、愛国心、フェアプレイ、ベストを尽くすこと。

これは、野球の米リトルリーグが掲げる社会的使命の宣言だ。これを読めば、非宗教的な団体が競争の場面で求める優秀さと、キリスト教的見解に立った「高尚な」質の高い競争というものに、さほど違いがないことがわかる。

これは、競争と宗教の関係について、一度も考えたことがない人にとっては、重要な点かもしれない。公認の規則や決まりに従って競争する場面では、フェアプレイとか、すがすがしさとかが敬われる。多くの人々が知っているが、その理由のわかっている人は少ないかもしれない。実は、フェアプレイの根本にあるのは、人生の基本的方針や価値観を、世俗的なライン以上のところに置く、という考え方なのだ。

この論理に従えば、善良であることや公正であることは生来、人間に備わっている資質かもしれない、と考えられる。そのように神が人間の心に植えつけてくださったものを、競争者たちが拒むとき、人を欺くとか、人間性を欠くような行動に至るのではないだろうか。

例えば次の聖書からの引用について、ちょっと考えてみよう。全ての人々に善と悪の違いがわかる能力が与えられた、と書いてある。

使徒パウロがローマ人への手紙2章15節にこう書いている。「彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。」聖書の解説者であるウィリアム・ヘンドリクセン氏の説明によると、「『神は』人に善と悪という分別の技能を授けた」そうだ。ヘンドリクセンは、また人間というものは、「自発的に律法(神の法)によって求められることを行う」ものだという。例えば、人がその妻や子供に対して優しくするとか、貧しい人への思いやりを持っているとか、正直であろうとすることなどだ。また、競争において公正さと誠実さを保とうとする、ということもそうだ。

だからこそ、(例えば先述のリトルリーグの方針のように)道徳的で理にかなった競争の考え方から、聖書に示され大切に守られてきた原則によってしっかり裏打ちされた競争の考え方に移行するのは、大きな一歩ではない。

時を越えて大切に守られる競争の原則の根源を調べていけば、その選手が宗教的であろうと、非宗教的であろうと、実用的で役に立つアドバイスを聖書の知恵から得ることができる。聖書を開けば、今まで見えなかったものが見えて公正な試合をする勇気が与えられるだけでなく、競争社会の中で、尊厳をもって生きていくために必要な、永遠の助けと支えの源を信頼するべき理由を知ることができる。Dave Branon

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