荒れ野でのサタンの誘惑は、その3年後、また一連の試みとなって戻ってきた。夜の闇の中、イエスはゲツセマネの園で捕えられる。その後に、この上ない試練が待ち受けていた。イエスは一人ぼっちだ。というのも、「そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった」(マタイ26:56)からだ。そして、ユダヤ教の指導者らの前で、大祭司カヤパのもとに引き出される。
弁護人がいないイエス対最高議会サンヘドリンという闘いだ。そしてカヤパが、罪状をでっち上げる。イエスの最初の応対は、沈黙だ。偽りの罪状を聞いても、イエスは落ち着いた様子。そこで、大祭司が、イエスに答えるよう命ずる。イエスは、このような悪に対してさえ悪で応じることをせず、全て真実のみを述べられた。
イエスがご自分と神との関係を認められた時、敵対する者たちは、これほどひどい神への冒涜(ぼうとく)はないと衝撃を受けた。そして彼らはイエスの死刑を要求する。
その日、イエスに課せられた試みやでっち上げの罪状は、あたかも、イエスの悲痛な敗北を意味するかのようだった。しかし、聖書の預言が満たされ、父なる神のご計画が全うされるためには、真実を語ることと沈着を失わないことをイエスは悟っておられた。
そしてイエスは、非難する者達にあざけり笑われ、侮辱的な言葉を浴びせられ、暴力的に扱われ、死刑を宣告されながらも、自信をもって対応された。今になってみれば、粗末な十字架上で、耐えがたい苦痛と屈辱に遭いながらも、最後にはご自分が勝利することをイエスがご存知だったのは明らかだ。
そうすると確かに、これは片方にとってアンフェアな競争と考えることができる。イエスに死刑宣告した統治者や死刑執行に関わった者達は、最初からこの闘いに勝てるはずはなかった。
ゴルゴタの丘でのイエスの死は、空前の逆転勝利となった。
イエスが、アリマタヤのヨセフの所有する墓地に埋葬された時、イエスを殺した者達は、 勝利の幻に酔いしれた。しかし、彼らの祝宴は数日と続かない。わずか3日後、イエスは死と敗北の壁を砕き、空前絶後の勝利者としてよみがえった。イエスが墓からよみがえった時、誰でもイエスを信じる者は、代価を払わずに神と和解し、永遠のいのちをいただける、という恵みを勝ち取ったのだ。
さて、虐待や拒絶、極度の苦しみにも関わらず、イエスが勝利をおさめられたという事実をよく考えてみれば、イエスが身を持って示された生き方や、みことば、そして犠牲は、人生の競争における深い洞察を与えてくれるだろう。
競争社会を日々生きていく中にあっても、父なる神との絆を取り戻し、確かなものにしてくださった唯一のお方、イエス・キリストに対して誠実に生きていくことができるように祈ろう。
私たちは、限りある資源を奪い合う競争社会に生きている。だから、日常生活や人生のあらゆる機会を通して、私たちの希望と自信のよりどころは、唯一の神であることを表わそう。どんなチャンスも無駄にすることなく、この神こそ、日々の恵みを与え、将来の究極の勝利を約束してくださると伝えよう。Dave Branon
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