徳川時代の厳しい鎖国政策の下でも、長期外国生活を体験した日本人が、少数存在しました。乗り組んでいた船が難破したため、余儀なく外国生活を経験した大黒屋光太夫や中浜万次郎。あるいは、長州藩や薩摩藩の政策として密に英国に留学した武士団などです。

ですが、同志社の創立者・新島襄の場合は、自分の意思で、たった1人で函館から米国に向けて密出国したというのですから、驚きです。

新島襄(1843-90)は1843(天保14)年、安中藩の江戸詰め下級武士の長男として生まれました。彼は国家の改革者、日本の近代化の先導者になりたいという強い意志をもって、21歳の1864(元治元)年、函館から国禁を犯して脱国し、翌年アメリカのボストンに着きました。

8年近く米欧で生活した新島は、欧米文明をつくり、支えているものは、キリスト教信仰を持ち、デモクラシーを体得した独立自尊の人間であるという結論に達します。キリスト教の人間形成が近代国家の形成に果たす役割の大きいことを認識した新島は、1874(明治7)年、宣教師として帰国。早速キリスト教の福音を全国に宣べ伝えるとともに、日本の近代化のリーダーとなる人物の育成を目ざし、1875(明治8)年11月、京都の地に同志社英学校を設立しました。

「世の中のため」に生きることの大切さや「社会事業は神の委託事業である」と口癖のように言っていた新島の教えに感化され、日本の社会事業の草分けとなる人物が多く輩出されました。

2013年には、テレビ大河ドラマ『八重の桜』が放映され、にわかに連れ合いの八重に焦点が集まりました。『八重の桜』のチーフ・プロデューサー内藤慎介さんは、ブログでこう語っておられます。「明治期、〈敗者〉の烙印を押されていた会津藩出身者でしたが、新島八重をはじめ、様々なジャンルにおいて、その後の日本の礎となるような人材を輩出しています。なぜ、彼らが、文明開化の日本をリードする役割を果たせたのか、を考えてみたいのです。」

新島襄と八重。2人は出会い、近代の日本の礎となる人材の教育に心血をそそぎました。そこに聖書信仰に裏打ちされた深い愛と献身があったことを忘れることはできません。

【参考文献】
学校法人同志社 http://www.doshisha.ed.jp/history/niijima.html
『新島襄自伝』同志社編/岩波文庫
『サムライウーマン 新島八重』守部喜雅/フォレストブックス

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