「無教会」、「非戦論」、「二つのJ」―――内村鑑三に思いを馳せるとき、その思想が現代においても脈々と受け継がれていることに驚かされます。

1861年、高崎藩の下級武士の子どもとして江戸に生まれた内村は、17歳の時に札幌農学校に学び、キリスト教と出会います。そして、翌年には、宣教師M・C・ハリスから洗礼を受けます。

先の時代には、武士が公の正義のために戦ったわけですが、近代に入り、社会的存在としての武士の時代は終わりを告げていました。その時代に、自分は何と戦うのか?内村の出した答えは、「二つのJ」のため、でした。

「日本/Japan」と「イエス/Jesus」という「二つのJ」に献身すること、そしてそれを欧米に向けて英語で語ること―――内村はその戦いに身を投じます。

私たちは、内村の思想に目が行きがちですが、彼の人生そのものがキリスト者としてのメッセージを放っていました。不敬事件による世間からの激しい非難、自身の病苦、味方と思われていたキリスト教会からの中傷、愛妻の死。そのような人生の闇の中においても、彼は光を見つめ、そこで生まれた考えを言葉に紡ぎ続けてきました。1930年に東京で亡くなるまで、内村は新聞記者として、また雑誌主筆として多数の文章を書き、単行の著作は60冊以上にのぼります。そのうち英文で3冊執筆しています。

たとえば、内村の精神的自叙伝とされている『基督信徒の慰』の章立ては、「愛するものの失せし時」「国人に捨てられし時」「基督教会に捨てられし時」「事業に失敗せし時」「貧に迫りし時」「不治の病に罹りし時」となっています。そこに記されているのは内村の魂の軌跡です。

内村にとって、「読む」ということは、ただ文字面を追うだけではなく、それを書いた人間に出会うことでした。聖書も、キリストに出会うために紐解いた内村。そんな彼の著作を紐解くことで、近代の日本においてキリスト者として生きた内村と、私たちも出会うことになります。

多磨霊園(東京都府中市)にある内村の墓には、このように墓碑銘が刻まれています。

I for Japan; Japan for the World; The World for Christ; And All for God.(訳:日本のための私、世界のための日本、キリストのための世界、そして全ては神のため)

死してなお、その生き方は、私たちに多くのことを語り掛けてくるのです。

【参考文献】
『余は如何にして基督信徒となりし乎』内村鑑三/岩波文庫
『内村鑑三 悲しみの使徒』若松英輔/岩波新書
『内村鑑三をよむ』若松英輔/岩波ブックレット

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