1905年、明治38年。1人の米国人青年が、日本の地に足を踏み入れました。彼の名は、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ、日本名一柳米来留(1880~1964)。
建築家を志していた彼の人生の軌跡に大きな影響を与えたのが、キリスト教の宣教師Mrs. ハワード・テイラーでした。その講演に感銘を受けた彼は、伝道師になることを決意。24歳の時に、来日します。
誰一人として知り合いのいなかったこの地で、彼の活動は多岐に渡りました。建材やオルガンの輸入、メンソレータム(現近江兄弟社メンターム)の販売などを行った「近江セールズ」の設立や、疎外されていた結核患者を救い続けた「近江療養所」の開設、幼稚園から高等学校におよぶ教育活動に、図書館運営や出版事業。また、音楽をこよなく愛した彼は作詞作曲も手掛け、讃美歌236番「神の国」も、彼の手によるものです。
来日3年後の明治41年12月には建築設計事務所を開き、アマチュア建築家として活動を始めたヴォーリズは、生涯を通じて1500件もの建築物を手掛けてきました。
数々の教会建築にとどまらず、大丸百貨店心斎橋店、旧大同生命ビル、主婦の友社(現お茶の水スクエア)などの商業施設、また関西学院大学、神戸女学院大学、同志社大学などの学校建築と、その作品の多くは関西を中心に今も残されています。
「建築物の品格は、人間の人格の如く、その外観よりもむしろ内容にある」と語ったヴォーリズ。人は身体的な存在であると同時に、精神的な存在であるということを大切な課題として建築を計画してきました。
「もしも建物がその設計において、建物において、充分均整のとれたものであれば、感情的にも道徳的にも何等かの感化を与えるはずである。……その最も重要な機能の一つは、(そこに生活する)人々の心の中に、洗練された趣味と美の観念を啓発することでなければならない。」
日本での暮らしには、さまざまな困難が待ち受けていましたが、この地にとどまり続けることを選んだヴォーリズ。太平洋戦争時には、開戦の気配が濃くなり、多くの外国人が日本を離れる中、彼は日本人への帰化を選択。一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と改名し、このアジアの小国にて様々な形で神様を証し、伝道してきました。
1世紀の時を経た今もなお、その建造物などを通して、ヴォーリズの信仰の一端にふれることができます。関西を訪れる機会があれば、ぜひヴォーリズ建築に触れてみてはいかがでしょうか。
【参考文献】一粒社ヴォーリズ建築事務所 http://www.vories.co.jp/W.M. ヴォーリズライブラリ http://vories.com/ヴォーリズ建築と関西学院 http://kgkouenkai.jp/campus_life/learn/vol01/index.html