単独飛行
◆ エゼキエル書31-33
チャールズ・リンドバーグは1927年5月20日から21日にかけて、大西洋単独無着陸飛行をしました。大西洋を飛行機で横断した人たちはそれまでにもいましたが、単独でこれを成し遂げた操縦士はひとりもいませんでした。これは、航空史上初の快挙でした。パリのル・ブルジェ空港に着陸するとリンドバーグは、拍手喝采する大勢の人に取り囲まれました。アメリカに帰国すると、祝賀パレードや勲章の授与といった栄誉を受け、孤独に耐え抜いた勇気と精神力がほめたたえられました。
リンドバーグの単独飛行は危険でしたが、この世の人生は、それ以上に危険だといえます。しかしクリスチャンは、人生の旅路を単独飛行する必要は決してないという事実に励まされ、慰められます。十字架につけられる前夜、主イエスは、決して私たちを見捨てることをせず、私たちに聖霊を与えてくださり、いつも共にいてくださると約束してくださいました(ヨハ14:16-17)。そして使徒パウロは、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」と語っています(Ⅰコリ3:16)。
聖霊は私たちの内に住んでおられ、主の平安と慰めを与えてくださいます(ヨハ14:26-27)。ですから、絶望と苦難に満ちた世界で、私たちは勇気を奮い起こします。「単独飛行」をすることは決してありません。何とありがたいことでしょう。
内に住まわれる御霊が、私たちが決してひとりでないことを保証してくれる。
東日本大震災支援活動報告
東日本大震災におけるRBCミニストリーズの支援活動についてのご報告
- 被災地教会およぴRBCメンバーより「デイリーブレッド」、探求の書シリーズ「津波のあとで」「嵐のときにも」等、2,500冊以上の冊子申込みをいただき、たくさんのクリスチャンにお読みいただきました。
- 探求の書シリーズ「津波のあとで」「嵐のときにも」をインターネットで全文公開し、3,300ユーザーを超える方々に閲覧していただきました。
- 国内、海外スタッフが被災地でボランティア活動を行いました。
- 国内、海外のRBCミニストリーズスタッフから義援金を集めました。
- スタッフおよび読者のみなさまからお預かりした義援金、および読者のみなさまからのRBCの働きへの献金の一部を日本福音同盟を通して寄付いたしました。
みなさまのご支援とお祈りを感謝いたします。引き続き、被災地の復興のためにお祈りしましょう。
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新刊案内メール
「探求の書シリーズ」新刊のご案内等をメールにてお知らせします。
クリスチャンが日常生活で直面するさまざまな問題について、聖書的な視点で考察し、分かりやすく語る冊子「探求の書シリーズ」。新刊発行のご案内やおすすめの情報を、メールにてお知らせします。
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グッド&プレンティ
◆ エゼキエル書28-30
私は、大の甘党です。キャンディの中では「グッド&プレンティ」がお気に入りです。砂糖をまぶしたリコリスキャンディのひと握りが、私を上機嫌にしてくれます。
人生には良いことがたくさんありますが、「グッド&プレンティ」を楽しむときと同じで、その興奮は、じきに失われてしまいます。最高に良いことでさえ、後から虚しさを感じたり、後悔することさえあります。ですから私は、詩篇の作者が「私は、主に申し上げました。『あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません』」(詩16:2)と宣言しているのを読むと、興味をそそられます。私たちは誰もが、神が良いお方であることを知っています。しかし、「私の幸いは本当にイエスさまだけだなあ」としみじみ思ったのは、いつのことだったでしょう。
詩篇の作者は、神がどれほど良いお方であるかを、次のように説明しています。まず神は、私たちの保護者です(1節)。すべての幸いの与え主(2節)、助言と指示を与えてくださいます(7節)。神は、「いのちの道」を知らせてくださり、御前にある喜びで満たしてくださいます(11節)。
私たちは残念なことに、神が私たちに賜るとこしえの幸いを十分に受け取っていません。自分の「小さな幸い」に邪魔をさせているのです。その「小さな幸い」は、来ては去るはかない性質を持っているので、必ず、私たちは失望させられます。神だけが、本当の幸いです。すべての必要を満たして余りあるお方です。
神だけが良いお方だ。それ以外のもので満足してはいけない。
善を見ならいなさい
◆ エゼキエル書25-27
大抵の人は、人生は悲喜こもごもだと認めています。結婚生活や友人関係、家庭や職場、教会においてもそうです。ところが、キリストを礼拝し、キリストに仕えることを求める人たちの集まりの中で、自己中心性がむき出しになると、私たちは驚き落胆します。
使徒ヨハネは、友人ガイオに宛てた手紙の中で、真実な行いをし、気前良くもてなしている教会の人々を褒めています(Ⅲヨハ1:3-8)。ところが、「彼らの中でかしらになりたがっている」(9節)デオテレペスは、その教会の中にとげとげしい雰囲気を作り出していました。
ヨハネは、次に教会を訪問する時はデオテレペスに意見をすると約束し、教会の人たちには、「愛する者よ。悪に見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことのない者です」(11節)と語って、彼らを励ましました。このヨハネのことばは、パウロがローマの教会に語ったことば、「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ロマ12:21)と一致しています。
対立が過熱すると、やられたのだからやり返す、という誘惑にかられます。けれどもヨハネは、悪い態度や行いから離れて、良い態度や行いをすることを熱心に勧めています。これこそが、救い主に栄光を帰す道です。
光は闇に打ち勝ち、善は悪を打ち負かす。
指示を与える
◆ エゼキエル書22-24
少し前のことですが、家内の車を牽引してもらうことになりました。業者に電話をして、我が家への道を説明し、カーナビは使わないようにと運転手に伝言して欲しいと言いました。なぜなら、同じ名前の道路が畑を隔てて存在するので、カーナビ頼りでは道に迷ってしまうからです。電話の相手は運転手に必ず伝えますと言いました。
ところが、家の前に立ってレッカー車の到着を待っていると、運転手から電話があり、カーナビを見ながら来たが道に迷ってしまったと言いました。「やはり」と思いながら道案内をしたところ、ようやくレッカー車が到着しました。
クリスチャンは、天国への行き方に関する正確な情報、つまり、「イエスと個人的な関係を結ぶことによって天国に入ることができる」という事実を提供しなければなりません(ヨハ3:16、Ⅰコリ15:1-5参照)。善行を積むとか、できるだけ良い人になる、というような自分勝手な宗教観に従っていっても天国には行けないことを、きちんと教えてあげなければなりません。相手の宗教に配慮しつつ、私たちは、キリストの死、埋葬、そして復活という真の福音を伝えなくてはなりません。イエスが、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハ14:6)と、はっきりおっしゃったのですから。
救いは人の力で到達できるものではなく、キリストの贖罪によって与えられる恵みだ。
馬のアイマスク
◆ エゼキエル書19-21
私たちの家からさほど遠くないところに、多くの馬を飼育する牧場があります。ある季節になると、目にマスクをかけられた馬を見かけます。私は長い間、目隠しをされるなんてずいぶん可哀想だと思ってきましたが、最近、そうではないことが分かりました。実は、目にかけられたアイマスクは網状の布で作られていて、目隠しではないのです。馬は見ることができます。一方で、馬の眼病の原因になるハエは、目にたかることはできません。アイマスクは、馬の視界を遮るためではなく、馬が病気で盲目になるのを防ぐためのものでした。
クリスチャンでない人は、聖書に関して同じような誤解をしがちです。この人たちは、世の楽しみを見せないように、神が聖書というアイマスクを人の目にかけるのだと考えます。そして、人生をエンジョイできないクリスチャンは可哀想だと思います。私が馬のアイマスクについて本当のことを知らなかったように、彼らは聖書について本当のことを知りません。聖書は、良いものを見ることを妨げるものではありません。うそ偽りに侵されて霊の目が見えなくならないように、私たちを守ってくれているのです。聖書は人生をエンジョイさせないのではなく、最高の人生を可能にしてくれるものです。
聖書は、真実を知るのを妨げるのではなく、うそを信じさせられることを防いでくれます。
神のみことばのフィルターを通してこの世を見れば、神と世についての真理が学べる。