導かれるままに
子どもの頃、日曜日の夕拝に行くのが楽しみでした。夕拝とは、帰国中の宣教師などが心躍る話をしてくださる場所だったからです。彼らの話に私の信仰は鼓舞されました。神に仕えるために喜んで家族や友人を離れ、家や財産、良い仕事を捨てて見知らぬ土地、時には危険を伴う土地にさえ出ていった人たちだったからです。
ユニークな友情
種類の違う動物の友情を映したビデオをフェイスブックでシェアする人がいます。豚と子犬、鹿と猫が仲良くしていたり、オランウータンが虎の赤ちゃんを母親のように世話していたりする愛らしいビデオです。
喜び
私は年齢を重ねていくことを意識するようになりました。今、人生の「冬」の季節に向かって足早に進んでいます。まだ「老い」の領域に達してはいませんが、時の流れがあまりに速く、戸惑うことがあります。
そんな私を支えるのは喜びです。今日という日は主にいただいた新しい日です。私は詩篇の作者とともに「主に感謝するのは、良いことです。…朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表すことは」(詩92:1-2)と語ります。
私の人生にも数々の闘いがあり、周りの人の痛みや困難に押し潰されそうになることもあります。しかし私は、詩篇の作者とともに、主の御手のわざを、喜び歌います(詩92:4)。私は、家族、友だち、満足な仕事という祝福をいただいていることに喜んでいます。神の創造の不思議と神の霊感によるみことばがあるので喜びます。イエスに愛され罪をあがなわれたので喜びます。また、神が聖霊をくださったので喜びます。聖霊は真の喜びの源です(ロマ15:13)。主がおられるので、信じる人は「なつめやしの木のように栄え、…年老いてもなお、実を実らせ」ます(詩92:12-14)。
どんな実が実るのでしょう。私たちは年齢や状況に関わらず、自分の生き方や発言によって、神の愛の模範になることができます。神を深く知り、神のために生き、神を語る者とされる人生には喜びがあります。
イエスはメイゼルを愛す
妹のメイゼルは幼い頃、皆に馴染みの讃美歌を「イエス、我を愛す。聖書がメイゼルに語るので、我、それを知る」と歌っていました。私はそれを聞くたびにいらつきました。「賢いお姉さん」の私は、正しい歌詞は「メイゼルに語る」ではなく「私にそう語る」だと知っていたからです。しかし、妹は思うままの歌詞で歌いつづけました。
偉大なる愛
最近、もうすぐ二歳になる孫のモリアを一晩預かりました。ひとりで泊まりに来るのは初めてです。朝から晩まで付きっきりで世話をやき、いっしょに遊んでやりました。そして翌日、親元に送り届けてバイバイすると、戸口に置いてあったお泊まりバッグをつかんで私についてきました。
もしあの時、知っていたら
通勤の車で「親愛なる若い私へ」という歌を聴きました。その歌は、今の自分が昔の自分に会いに行ったなら何と言いますか、と優しく問いかけます。私は、今ほど賢明ではない若いときの自分に伝えたい知恵や警告を、いくつか思い浮かべました。もう一度やり直せるなら…と、人生のある時点で考えたことの無い人がいるでしょうか。
ちょっとした楽園
書斎の窓を開くと、鳥のさえずりが聞こえ、そよ風に揺れる木々が見えます。近所の畑には干し草の束がいくつも並び、抜けるような青い空に大きな白い雲が浮かんでいます。私は今、ちょっとした楽園を楽しんでいます。絶え間なく行き交う車の騒音と、腰の痛みを除けばの話ですが…。
悲しみから喜びへ
ケリーの出産は異常分娩になりました。しかし大変な難産の末、無事に産まれた息子を抱くと、彼女は痛みを忘れてしまいました。苦しみが喜びに変わったのです。
着る
著書『神を着る』の中で、ローレン・ウィナーは、服装は、地域や職業、個性、雰囲気、社会的地位など、その人を語ると言います。スローガン入りTシャツ、背広、制服、作業着などは良い例です。彼女はまた「装いが語るように、無言でイエスを語れる」という考え方は素敵だと言います。