成熟のプロセス
チャールズ・シメオン(1759-1836)は英国ケンブリッジで50年牧師をしましたが、新米の頃、近所の教会の牧師ヘンリー・ベンと娘たちに会いました。シメオンはきつくて自己主張が強い、と娘たちが言うと、ベンは、桃の木から実を取って来るように言いました。娘たちが、熟していないのになぜかと尋ねると、「そうだろう。果実はまだ青いから待たなくてはいけない。太陽や雨の恩恵をもう少し受けるなら、熟して甘くなる。シメオン先生も同じだよ」と言いました。
建て直す
ドウェインはヘロイン中毒と窃盗が原因で、南アフリカ、ケープタウンのマネンバーグ地区の家を17歳で出ましたが、そうはいっても、トタン板で建てた裏庭の小屋に移っただけです。そこはやがて「カジノ」と呼ばれ、薬物乱用の場となりました。ところが、ドウェインは、19歳でイエスに出会いました。その後の道のりは長く苦しいものでしたが、神の助けと信仰の友の支えによって、薬物依存を断ち切り、回復しました。「カジノ」を作ってから10年後、ドウェインと仲間たちは、ここを家の教会にしました。暗く不吉な場所が、礼拝と祈りの場に変えられたのです。
常に感謝する
マルティン・リンカートは17世紀、ドイツのザクセン州で30年以上、牧師として働きました。それは疫病が蔓延したり戦時中だったり、という時代で、ある年には4千人以上の葬儀を執り行い、その中には妻の葬儀も含まれていました。食料不足で家族と空腹に耐える日々もありました。しかし、絶望的な状況下でもリンカートの信仰は揺るがず、絶えず神に感謝していました。実際、彼の感謝は、多くの人に愛される「いざもろともに」(聖歌291番)という賛美歌を生んだのです。
神が語るとき
聖書の翻訳に従事するリリィは帰国しようとして空港で拘束されました。スマホを調べられ、新約聖書の音声アプリが見つかったので、それを没収された上、2時間も尋問されました。それを起動するように係官たちに求められ、従うと、マタイの福音書7章1~2節が読まれました。「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」。これを自分たちの言葉で聞いて、係官のひとりは青ざめました。リリィは釈放され、その後もなしのつぶてです。
よそ者を愛する
外国に転居して間もない頃、よそ者扱いをされました。夫が礼拝説教をする小さな教会で座っていると、老紳士がじろっと見て「そこをどきなさい」と言ったのです。彼の妻は詫びながらも、自分たちはいつもそこに座っていると説明しました。かなり経ってから、その教会では昔、教会員がお金を払って席を確保し、その賃料を教会財政の足しにしたと知りました。そういう背景で、誰それの席という考え方が長く受け継がれていたのです。
キリストを映す
その少女は快活でしたが、4歳で母を亡くすと、心が不安定になりました。しかし、何年も経ったあるクリスマスイブ、主の降誕を教会で祝った後、恐れから解放されたのです。彼女は、天国を離れた神が、イエスという人になって自分の中に住まわれたので、この変化が起こったと考えました。リジューの聖テレーズと呼ばれる修道女の話です。
うわさを止める
英国のケンブリッジのホーリートリニティ教会の牧師に任命されてから、チャールズ・シメオン(1759-1836年)は、何年も抵抗にさらされました。会衆の大多数はシメオンではなく、当時の副牧師を就任させたかったからです。彼らはうわさを流したり、礼拝をボイコットしたり、彼を教会堂から閉め出したりさえしました。しかし、聖霊に満たされたいと願ったシメオンは、ある原則を定め、それに従うことでゴシップに耐えました。そのひとつは、完全な真実でない限り、どんなうわさも信じないこと。もうひとつは、「別の側面から見れば、全く別の物語になると常に信じる」ことです。
釣り禁止
ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の生き残りコーリー・テン・ブームは、赦しの大切さをよく知っていました。赦された罪が海に投げ捨てられる心象風景が好きだと著書『主のための放浪者』で述べています。「私たちが罪を告白すると、神はそれを深い海に永久に投げ捨てられます。…そして『釣り禁止』という看板を立てられます」と語っています。
悲しみの時に神を信頼する
末期がんだと分かったとき、「パパ・ジョン」と妻キャロルは、闘病生活をネットでシェアするように神に告げられたと感じました。弱さをさらけ出すことを通して、神が証されると信じ、2年間、喜びや悲しみ、そして苦しみを語り続けました。キャロルが「夫はイエスの腕の中に迎えられた」と書いた時、何百人もが、ふたりの大胆な分かち合いに謝意を表しました。ある人は「皆、いつかは死ぬのだから」キリスト者の死に対する考えは健全だと書きました。別の人は、ふたりに会ったことはないけれど、神を信頼する姿に勇気をもらったと書きました。パパ・ジョンは時に激痛に見舞われましたが、分かち合いは続きました。神がどのように支えてくださるかを伝えたかったからです。彼らはその証が神のために実を結ぶと信じていました。それは苦しみの中で「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです」(Ⅱテモ1:12)と書いた使徒パウロを彷彿させます。