決して絶えることのない愛
結婚式をあげる若いカップルは、永遠の愛にあこがれます。しかし、パウロがコリント人への手紙第一13章で述べている愛なくして、このような愛は存在しません。パウロは、これらの思いを8節の「愛は決して絶えることがありません」という一節で強調し、愛についての議論を終わらせています。
本当の愛は逆境に強く、生き残ります。なぜなら、その源は神であり、そのいのちも神にあるからです。本当の愛は、どんなことにも耐えるのです。
パウロは、他のもの(預言、異言、知識)は一時的で不完全なので頼りにならないと明言しています。しかし、愛は違います。神の力と恵みによって、どんな状況をも生きのびるのです。本当の愛は、裏切り、疑惑、道徳的失敗、そして失望をも乗り切ります。敵対する人たちや侮辱、嫉妬を乗り越えることもできます。逮捕や拉致、監禁されても滅ぼされません。
その人が間違った選択をしたために以前のように付合えなくなった人がいたとします。しかし、神の愛は、相手の人のために祈り、何かできることがあったなら、私たちがその人のために働くよう導いてくださいます。
その愛は、キリストの心を反映する愛です。そして、人生にすばらしい転換がもたらされます。それこそが、本当の愛です。
本当の愛のしるしーその三
本当の愛は「自分の利益を求めません。」
無私無欲について説明するとき、パウロはこの表現を最も好みました。自分の利益を求めない人とは、関心が外向きの人です。そのような人は、自分のことに集中しすぎないので、他の人の必要や利益に心を配ることができます。
パウロは、ピリピ人への手紙2章でも、この愛の原則について言及しています。
「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり...何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピ2:1、3~4)
これらの記述は、キリストを信じる人たちの心がひとつになるようにと、パウロが心から願っていたことを表しています。しかし、それが夫婦であれ、親子であれ、教会内やその他のどんなグループの人間関係であっても、自分たちの思いだけでなく他の人たちの気持ちに配慮しなければ、クリスチャンの心がひとつになることはありません。
自己犠牲は、私たち人間の持って生まれた性質とは相反した行為です。それは、キリストの心(ピリピ2:5)です。キリストは、ご自分を低くされました。天の御座を去って限界のある人間になり、ご自分を拒む者たちの僕となられました。ご自分を見捨て逃げる弟子たちの足を洗い、ご自分のいのちを捨てる価値などない人間の罪をあがなうために、十字架にかかって死なれました。本当の愛の実例を、このイエスの他に見つけることができるでしょうか。イエスは、自分のことを通り越して他の人のために尽くす、本当の愛の姿を見せてくださいました。
本当の愛は「怒りません。」
パウロが本当の愛を定義するために使った次の言葉は、簡単にイライラしたり、とげとげしくなったりしないという意味です。言い換えれば、すぐキレないことです。これは、愛の第1番目の原則である「寛容」に似ています。
私たちは、この愛の特徴を簡単に忘れてしまいます。夫婦は、結婚してわずか数年で、 相手にカッとしやすくなります。親は苛立つと、子どもを怒鳴りつけます。職場では、当然の権利が奪われたと、従業員がさわぎます。公務員が汚職をすると、人々はひどく怒ります。
なぜ、私たちは 「ムカつく」のでしょう。私たちは、ときどき腹の中が煮えくり返るという経験をしますが、それは欲しいものを欲しいときに手にしようと主張しているのに、「後で」などと応じられるからです。癇癪は、自己中心性の確固たる証拠です。しかし、逆の例もあります。自分本位が理由で怒っているのではなく、愛のために憤りを感じるというときです。使徒の働き17章16節がその例です。
「さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。」
この場合、パウロの怒りは愛によるもので、当然とも言えました。パウロは、シラスとテモテを待っているうちに、アテネの偶像崇拝について見聞きしました。そして、人々が似非宗教にだまされ傷つけられていると思うと、心の中に怒りがじわじわと湧き上がってきました。
もうひとつ例を見てみましょう。イエスは宮の両替人のテーブルをひっくり返されましたが、そのとき、心の底から怒っておられました。愛に満ちたイエスは、「祈りの家」にあった異邦人の庭を台無しにしてしまった商業主義を怒られたのです。イエスは、祈るための静かな場所を奪われた異邦人を気の毒に思っておられました。愛が欠けていたために過剰に反応されたのではありません。むしろ、愛に溢れていたために、神が愛しておられる人々を困らせる悪習慣を怒られ、あのように行動されたのです。
アテネのパウロやイエスの宮きよめの行動は、怒るべきときもあると私たちに教えます。しかし、怒りは愛をもって示さねばならず、怒っても罪を犯してはいけません(エペソ4:26)。
本当の愛は「人のした悪を思いません。」
パウロは、無視することを奨励しているのではありません。「見ざる、言わざる、聞かざる」という伝説上の猿を模範にしているのではありません。ここで使われている単語は、経理の専門用語で「統計する」とか「帳簿に書き込む」という意味です。また「悪」とは、他人から受けた傷を意味します。
「人のした悪を思いません」と言うとき、それは、仕返しをする目的で傷つけられた記録をとどめておかないことを意味します。別の言い方をすれば、本当の愛は、たとえ相手が悪くても、その人に対して長年、恨みを持ち続けたりはしません。借りは返してもらおうと相手の間違いを記録しつづけるなら、自分の借りも払いきれないほど大きくなるでしょう。私の教会には、25年間も絶交している人たちがいます。残念なことに、この人たちは、違いを乗り越えて和解しようとは思っていません。
自分の罪を認めて赦しを請う人を赦すとき、人は最も神に似せられると言われますが、 もしそれが本当ならば、自分の間違いを認めて哀れみを請う人に遺恨を持ち続けるなら、私たちは、自分を救ってくださった神から最も遠いところにいるのです。相手の失点を覚えておくのはスポーツではよいことですが、愛を実践するためにはよくないことです。
本当の愛は、相手の間違いを記帳したりしません。というのは、神が自分とともにいて、すべてを与えてくださると安心しているからです。すべての結末は、神の御手の中にあると知り、また、私の必要は神に知られていると信じているなら、他人の落ち度を自己防衛のために記録する必要はありません。
安全な場所
私たち兄弟は、ウェストバージニア州の山あいの町で育ちました。子どもの想像力をかき立てる自然の中で、ターザンのようにつるにつかまったり、世界名作劇場の「ふしぎな島のフローネ」の家族のように木で小屋を建てたりと、本や映画で見聞きしたことを実際に試してみました。お気に入りは敵を寄せ付けない秘密基地を作る遊びです。私の子どもたちもまた、毛布やシーツ、枕などで秘密基地を作り、想像上の敵に襲われない「安全な場所」を作って遊びました。安心安全な隠れ場を欲するのは、私たちの本能なのかもしれません。
反映し、投影する
画家シーギスムンド・ゲーツは「さげすまれた男」という作品で、ヴィクトリア朝時代の英国民を愕然(がくぜん)とさせました。その絵は、当時の英国民と思しき人々が死刑台で苦しむイエスを取り囲んでいます。しかし彼らは、商売や政治、恋愛など、自分のことに心を奪われ、救い主の犠牲に無関心です。イエスの十字架を見ていたユダヤ人同様、絵の中の人たちは、自分が見落としたものを分かっていませんでした。
共感疲労
第二次世界大戦中、家族と隠れ家で暮らした日々を綴った日記で有名なアンネ・フランクについて、ナチスの強制収容所生活を共にした人たちは「アンネの共感の涙は決して枯れることなく…、周りの人にとって祝福の存在だった」と語りました。学者のケネス・ベイリーはここから、アンネは「共感疲労」していなかったと結論づけています。
素晴らしいクライマックス
親のおかげでクラシックからカントリー&ウエスタンまで様々なジャンルの音楽に親しんで来たので、モスクワ国立交響楽団の演奏を聴きにモスクワ音楽院に足を踏み入れたときは胸が高鳴りました。指揮者に導かれてオーケストラがチャイコフスキーの名曲を奏で、テーマが徐々に発展して、力強い演奏が最高潮に達しました。劇的なクライマックス。まるで魔法のようなひと時で、客席は喝采の嵐でした。
勇敢な抵抗
ナチスがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)した時、ポーランド人のテレサ・プレケローヴァは10代でした。それはユダヤ人が連れ去られるホロコーストの始まりでしたが、テレサたちは危険を冒してワルシャワのゲットーやナチスの粛清から彼らを救いました。テレサは成長して、この戦争とホロコーストの歴史研究の第一人者となりましたが、エルサレムのヤド・ヴァシェム(ホロコースト博物館)の「諸国民の中の正義の人」に名が刻まれたのは、邪悪な風潮に勇敢に抵抗したからです。
名前の意味
ギップ•ハーディン牧師は、有名な伝道者ジョン•ウェスレーにあやかろうと、息子をジョン•ウェスレー•ハーディンと名付けました。しかし、彼は父の思いに反して42人を殺す西部開拓時代の悪名高い無法者になりました。
忍耐が必要
聖書のみことば:Ⅰコリント13
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。—Ⅰコリント13:4
私が乗る予定の飛行機が、機材の不具合で出発を見合わせていました。初めは15分程 度の遅れと聞かされていましたが、どんどん延びて3時間も待たされました。地上スタッフは、苛立った乗客たちへの対応に走り回っています。夜が更けてくると、人々は荒々しい口調で文句を言いました。遂にはパイロットが出てきて騒ぎを静めようとしましたが、その乗客たちは彼にも食ってかかる始末でした。その様子を黙って見ている私に、隣にいた男性が静かに言いました。「今夜は、忍耐という美徳が必要ですね。」
日々の生活はいらいらすることの連続かもしれません。腹立たしいことさえあります。しかし、「堪忍袋の緒が切れる」という体験は、多くの場合、相手に失望したときに抑えられない自己主張の現れです。一方、聖書に描かれている真実の愛は、自己犠牲です(ヨハ15:13)。それは、人に対する忍耐という形でも表されます。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。…礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、…」(Ⅰコリ13:4-5)とある通りです。真実の愛は、自分の都合を脇に置いてキリストの模範に従います。
そんなことはできないと思いますか。そのとおりです。自分の力ではとてもできません。けれども、神の助けを祈り求めるなら、苛立たしいことにもじっと我慢して、神の愛を映し出すような態度で相手に接することができます。
堪忍袋の緒が切れそうになったら、神がどれだけ忍耐しておられるかを思い出そう。