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Bill Crowder

Bill Crowder

ビル ・ クラウダー氏は、コンテンツ部門の責任者です。Discovery Series (探求の書シリーズ) や Discovery House Publishers に数多くの著書があります。クラウダー氏と妻マーリーンには 5 人の子どもと数人の孫があります。

寄稿一覧 Bill Crowder

本当の愛のしるしーその三

本当の愛は「自分の利益を求めません。」

無私無欲について説明するとき、パウロはこの表現を最も好みました。自分の利益を求めない人とは、関心が外向きの人です。そのような人は、自分のことに集中しすぎないので、他の人の必要や利益に心を配ることができます。

パウロは、ピリピ人への手紙2章でも、この愛の原則について言及しています。

「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり...何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピ2:1、3~4)

これらの記述は、キリストを信じる人たちの心がひとつになるようにと、パウロが心から願っていたことを表しています。しかし、それが夫婦であれ、親子であれ、教会内やその他のどんなグループの人間関係であっても、自分たちの思いだけでなく他の人たちの気持ちに配慮しなければ、クリスチャンの心がひとつになることはありません。

自己犠牲は、私たち人間の持って生まれた性質とは相反した行為です。それは、キリストの心(ピリピ2:5)です。キリストは、ご自分を低くされました。天の御座を去って限界のある人間になり、ご自分を拒む者たちの僕となられました。ご自分を見捨て逃げる弟子たちの足を洗い、ご自分のいのちを捨てる価値などない人間の罪をあがなうために、十字架にかかって死なれました。本当の愛の実例を、このイエスの他に見つけることができるでしょうか。イエスは、自分のことを通り越して他の人のために尽くす、本当の愛の姿を見せてくださいました。

本当の愛は「怒りません。」

パウロが本当の愛を定義するために使った次の言葉は、簡単にイライラしたり、とげとげしくなったりしないという意味です。言い換えれば、すぐキレないことです。これは、愛の第1番目の原則である「寛容」に似ています。

私たちは、この愛の特徴を簡単に忘れてしまいます。夫婦は、結婚してわずか数年で、 相手にカッとしやすくなります。親は苛立つと、子どもを怒鳴りつけます。職場では、当然の権利が奪われたと、従業員がさわぎます。公務員が汚職をすると、人々はひどく怒ります。

なぜ、私たちは 「ムカつく」のでしょう。私たちは、ときどき腹の中が煮えくり返るという経験をしますが、それは欲しいものを欲しいときに手にしようと主張しているのに、「後で」などと応じられるからです。癇癪は、自己中心性の確固たる証拠です。しかし、逆の例もあります。自分本位が理由で怒っているのではなく、愛のために憤りを感じるというときです。使徒の働き17章16節がその例です。

「さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。」

この場合、パウロの怒りは愛によるもので、当然とも言えました。パウロは、シラスとテモテを待っているうちに、アテネの偶像崇拝について見聞きしました。そして、人々が似非宗教にだまされ傷つけられていると思うと、心の中に怒りがじわじわと湧き上がってきました。

もうひとつ例を見てみましょう。イエスは宮の両替人のテーブルをひっくり返されましたが、そのとき、心の底から怒っておられました。愛に満ちたイエスは、「祈りの家」にあった異邦人の庭を台無しにしてしまった商業主義を怒られたのです。イエスは、祈るための静かな場所を奪われた異邦人を気の毒に思っておられました。愛が欠けていたために過剰に反応されたのではありません。むしろ、愛に溢れていたために、神が愛しておられる人々を困らせる悪習慣を怒られ、あのように行動されたのです。

アテネのパウロやイエスの宮きよめの行動は、怒るべきときもあると私たちに教えます。しかし、怒りは愛をもって示さねばならず、怒っても罪を犯してはいけません(エペソ4:26)。

本当の愛は「人のした悪を思いません。」

パウロは、無視することを奨励しているのではありません。「見ざる、言わざる、聞かざる」という伝説上の猿を模範にしているのではありません。ここで使われている単語は、経理の専門用語で「統計する」とか「帳簿に書き込む」という意味です。また「悪」とは、他人から受けた傷を意味します。

「人のした悪を思いません」と言うとき、それは、仕返しをする目的で傷つけられた記録をとどめておかないことを意味します。別の言い方をすれば、本当の愛は、たとえ相手が悪くても、その人に対して長年、恨みを持ち続けたりはしません。借りは返してもらおうと相手の間違いを記録しつづけるなら、自分の借りも払いきれないほど大きくなるでしょう。私の教会には、25年間も絶交している人たちがいます。残念なことに、この人たちは、違いを乗り越えて和解しようとは思っていません。

自分の罪を認めて赦しを請う人を赦すとき、人は最も神に似せられると言われますが、 もしそれが本当ならば、自分の間違いを認めて哀れみを請う人に遺恨を持ち続けるなら、私たちは、自分を救ってくださった神から最も遠いところにいるのです。相手の失点を覚えておくのはスポーツではよいことですが、愛を実践するためにはよくないことです。

本当の愛は、相手の間違いを記帳したりしません。というのは、神が自分とともにいて、すべてを与えてくださると安心しているからです。すべての結末は、神の御手の中にあると知り、また、私の必要は神に知られていると信じているなら、他人の落ち度を自己防衛のために記録する必要はありません。

本当の愛のしるしーその四

本当の愛は「不正を喜びません。」

愛は、自分の主張を押し通そうとイラついたりしません。また、不親切をせず、ねたまず、見栄を張ったり自己宣伝したりせず、礼を失せず、利己的でなく、遺恨を持ち続けず、短気を起こしません。

愛は不正を喜ばないとは、前述のまとめです。パウロは、「神が悪いことだと言われることは愛ではない」と述べているので、他の人が道徳的に失敗したことを密かに喜ぶのは、愛ではありません。暴かれるべき悪を隠すことが愛ではありません。他人の失敗を井戸端会議のネタにするのは愛ではありません。自分は情報通だと吹聴したり、単調な会話を弾ませたりするために他人の恥を話題にすることは愛ではありません。誰かが罪を犯したという話は、関係者のきまり悪さや苦しみをあおらないように、人々の益になるような形でしか語られるべきではありません。

アイルランドの作家オスカー・ワイルドは、冗談半分にこう言いました。「私は、信条より人間が好きです。そして、信条を持たない人が、世の中で一番好きです。」このような言葉を聞くと、私たちはニヤッとします。それは、道徳的な信条よりも罪のほうが愉快だからです。パウロが記述している愛は崇高に聞こえますが、短期的に見るなら、苦痛に思えます。しかし、本当の愛は、長期的な視点に立って、罪の害を心配します。罪の報いの苦悶を思うなら、悪を歓んでいるわけにはいきません。

本当の愛は、浮かれて蒔いた悪の種が、良心の呵責に苛まれる深刻な結果を生むということを知っています。罪は、私たちから機会や利益を奪ってしまいますが、 事の発端は軽率さや愚かさです。「みんなもやっている。」と言って蒔いた種は、いつの日か、別離や孤独という果実になることを、本当の愛は知っています。罪をそのままにすれば、大切な時間が失われるだけでなく、たましいが永遠に滅びてしまう可能性さえあります。

本当の愛は不正を喜びません。それは、今だけでなく将来をも心配しているからです。悪は無邪気ないたずらではありません。本当の愛は、そのことを知っています。

本当の愛は「真理を喜びます。」

パウロは「愛は不正を喜びません。」と言いました。では何を喜ぶのでしょう。その答えは真理です。では、なぜ「正しさ」ではなく「真理」なのでしょう。パウロが「真理」という言葉を選んだ理由は、正しさと真理の本質的な関係にあると思われます。

パウロは、テサロニケ人への手紙第二の中で、「真理を信じないで、悪を喜」ぶ者は裁かれる(IIテサロニケ2:12)と述べていますが、この言葉は、「愛は真理を喜びます。」の意味を解き明かす手がかりになります。すなわち、パウロは、あることを信じることとある行動をすることの間には、深い関係があると指摘しています。つまり、何を信じるかが、私たちの行動を決定します。同時に、やりたいと思うことが、信じたいと思うことを決定するのです。

聖書が正しい信仰を強調しているのは、このためです。良い教理とは、神について、私たち自身について、他者についての正しい教えのことです。正しい教えは、自分を欺いて人と係わるのではなく、真理の中でお互いを愛するように導いてくれます。

すべての悪は、真理を否定します。間違った行為の根は、現実に対する誤信です。すべての不道徳は、自己欺瞞に起因しています。自己欺瞞とは、次のことです。それは「自分のことは神以上に私自身がよく知っている。周りの人のためにどうすればよいかについても、神以上に知っている」と言うことです。

結婚前の交際相手と性的な関係を持とうとするのは、本当の愛ではなく不誠実です。真理についての嘘を信じることで、人は殺人や強盗を犯し、人を欺し、嫉妬し、噂話をします。結婚していない大人の男女が合意の上で性的関係を持ったとしても、誰にも迷惑をかけていないというのは、自己欺瞞です。

パウロが愛は「不正を喜ばずに真理を喜びます。」と語ったのは、もっともなことです。不正の反対は、単なる正義ではありません。正しくないことの反対は真理です。人と良い関係を築くことを可能にしてくれるものは、人の欠点をあげつらうことではなく、真理を信じることです。それは神について、人について、そして自分自身についての真理です。真理に背を向ければ、私たちは自滅します。勇気を出して正しく、忍耐強く、誠実に生きるなら、私たちは、自分よりうまくやっている人たちのことをも喜ぶことができます。それが、本当の愛です。

本当の愛について説明するために、パウロは、真理と正義という基礎を据えました。いよいよ、仕上げにかかります。

本当の愛は「すべてを我慢します。」

ギリシャ語で「我慢する」という言葉は「屋根」を意味します。愛は、屋根が嵐から家を守るように、愛するものを守ります。周りの状況がどうであれ、相手の益のために我慢して働き続けます。失敗の雨も逆境の風も、失望の嵐も我慢します。愛は極寒の冬や酷暑の夏を避ける屋根です。最悪の状況に耐え得る避け所です。

人は不完全な世界に生きていますから、辛く厳しい現実に直面します。そんなことがないように私たちを守ることは、誰にもできません。また、間違った選択をすれば、その先には良くない結末が待っています。その現実から私たちを救うことは愛にもできません。しかし、愛は傷つき疲れはてた人を思いやり、助けてくれる友だちを与えます。愛は、悔い改めの心を持たない人にさえ、とりなしの祈りをする人を与えてくれます。愛は、どんな悪い人にさえ、悔い改めるチャンスを与えるのです。

ここで間違ってはならないことは、「すべてを我慢します」という意味が、雑巾が汚いものを拭うように自分に向けられたすべての罪を我慢することではないということです。その意味は、愛は相手の最善を願うことを止めず、相手から赦しのチャンスを取り上げないということです。愛があるなら、相手を憎んだり、軽蔑したり、否定したりしません。愛は思いやり深く祈りつづけ、相手の失敗を忍耐し、はっきり物を言うべき時は言い、悔い改めれば赦してあげます。このようにして、相手を思いやるのです。この愛を、屋根のイメージで説明する限界が、ここにあります。つまり、この愛は、消極的な愛ではないからです。この愛は、積極的な愛です。相手の出方によってリードしたり応答したりと適切に変化する活力に満ちています。愛の本質は変わりません。しかし、相手にとってすべてが益となるために、愛の戦略は常に変化しています。

本当の愛のしるしーその五

本当の愛は「すべてを信じます。」

この説明から受ける第一印象は、愛する人は単純でだまされやすいというものです。しかし、パウロの考えは違います。また、疑わしい言動をいつも好意的に理解してあげなさいというわけでもありません。愛情深い教師やコーチ、カウンセラーや友人は、真相を突き止めるためにむしろ疑い深くなるべきです。

パウロは、愛しているなら相手の言うことを盲目的に信じなさい、とは言っていません。そうではなく、信じることと愛することには喜ばしい基本的な関係があると言っているのです。本当の愛は、神を信じることからエネルギーを得ています。コリント人への手紙第一13章は、この真理を教えてくれます。神が語られるすべて、つまり、神、そして、私自身や私と他者について神がお語りになる「すべて」を信じる、という信仰の上に、本当の愛が育まれていくのです。

もし、神の愛を疑うことがあるならば、私たちはお互いに愛し合う動機を失います。もし、神が寛容で親切であることを疑うならば、お互いに寛容であり親切であることは難しいでしょう。もし、神が生活の必要を満たしてくださることを疑うならば、人に気前良くしようとは思わないでしょう。

キリストのように愛することを理解するために、「愛はすべてを信じる」という真理は、大切です。本当の愛は、信仰の上に立脚し、そこに根を下ろしています。信仰は聖書に記された神のみことばに立脚し、そこに根を下ろしているのです。

神への信仰がなければ、愛はあきらめて死んでしまいます。神が語られた「すべて」を信じつづけないかぎり、私たちの愛は、人生における侮辱や拒絶、そして失望を生き抜くことができません。神のみことばの上に私たちの愛の基礎を据えないかぎり、愛は敗北してしまいます。神を信頼してこそ、愛は強くありつづけるのです。

本当の愛は「すべてを期待します。」

これは前文から自然につづくものです。神のみことばと神の御計画を信頼して生きるなら、当然、すべてを期待することができます。神の恵みを信頼するとは、人間が失敗しても、それで終わりではないと信じることです。本当の愛が「期待する」理由は、神が人の人生に働きかけられるからです。

パウロは、無分別に何でも信じなさいとは言っていませんが、聖書の神を信じる人たちだけが、愛することと期待することの健全な土台を持っていると言っています。

詩篇の作者は、「私の望み、それはあなたです。」(詩篇39:7)と神に語りました。パウロは、「希望は失望に終わることがありません。」(ローマ5:5)と言っています。また、ペテロは、次のように記しています。「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」(Iペテロ1:3)

これが愛の力です。愛のエネルギー源は、移ろいやすい感情や時々の状況ではなく、神に対する深い信頼と大きな希望にあります。本当の愛は「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」(コロサイ1:27)によって、いつも新しくされながら、人生を前向きに生きています。

本当の愛は「すべてを耐え忍びます。」

本当の愛が、正しいことを信じ、正しい希望を持つという前提で、パウロは「愛はすべてを耐え忍ぶ」と言っています。愛についての話を締めくくるために、「耐え忍ぶ」という単語が選ばれましたが、これは13章4節の「寛容」と同じ意味を持っています。

本当の愛を説明するために、パウロはこのふたつの単語の違いを上手に用いています。

4節の「寛容」は長く耐えるという意味で、自分を迫害する人さえ恨まずに耐え忍ぶということが焦点になっています。一方、「すべてを耐え忍ぶ」というときに強調していることは、人生のいろいろな状況に対してどう応答すべきかという点です。愛はあきらめません。途中で投げ出したり、逃げ出したりしません。「すべてを耐え忍び」、最後まで我慢します。

決して忘れることのできない光景があります。それは、1984年のロサンゼルス・オリンピックの女子マラソンを走ったスイス人選手の光景です。他の選手たちがゴールに入り、かなり長い時間が経過してから、この選手は競技場によろめきながら入って来ました。立っているのがやっとという状態で、歩いたり走ったりすることなど不可能のように見えました。しかし、ゴールするにはトラックを一周しなければなりません。私は、限界に達し、今にも倒れそうなこの選手の姿を見つめていた自分を思い出します。同時に、そこにいた観客が総立ちで、何としても完走するようにと、彼女を応援したことも覚えています。最後の直線コースにさしかかったとき、彼女のコーチがすぐ横を歩きだしました。失格にならないように、彼女にさわらないように注意深く歩きました。ついに、ゴールラインを越えると、彼女はコーチの腕の中にくずれ落ちました。ほとんど無意識の状態でした。

何という素晴らしい忍耐の姿でしょう。こういう忍耐こそ、コリント人への手紙第一13章が語る愛のしるしです。本当の愛は、耐え忍びます。苦しみに遭ってもあきらめず、耐え忍びます。ゴールすることには大きな価値があると知っているからです。

決して絶えることのない愛

結婚式をあげる若いカップルは、永遠の愛にあこがれます。しかし、パウロがコリント人への手紙第一13章で述べている愛なくして、このような愛は存在しません。パウロは、これらの思いを8節の「愛は決して絶えることがありません」という一節で強調し、愛についての議論を終わらせています。

本当の愛は逆境に強く、生き残ります。なぜなら、その源は神であり、そのいのちも神にあるからです。本当の愛は、どんなことにも耐えるのです。

パウロは、他のもの(預言、異言、知識)は一時的で不完全なので頼りにならないと明言しています。しかし、愛は違います。神の力と恵みによって、どんな状況をも生きのびるのです。本当の愛は、裏切り、疑惑、道徳的失敗、そして失望をも乗り切ります。敵対する人たちや侮辱、嫉妬を乗り越えることもできます。逮捕や拉致、監禁されても滅ぼされません。

その人が間違った選択をしたために以前のように付合えなくなった人がいたとします。しかし、神の愛は、相手の人のために祈り、何かできることがあったなら、私たちがその人のために働くよう導いてくださいます。

その愛は、キリストの心を反映する愛です。そして、人生にすばらしい転換がもたらされます。それこそが、本当の愛です。

どこに愛を見つけることができますか?

もしあなたが、「どこに本当の愛を見つけることができますか。」と心から尋ねているのなら、良い知らせがあります。あなたは、すでに愛されています。聖書のもっとも有名な一節はこう語ります。

「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

信じる人たちに対して、キリストは神の愛の広さを述べられました。弟子たちに、次のように言われました。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:31~33)

人を愛することにはリスクが伴いますが、このように愛されているなら自分の立場は安全だと信じて、リスクを顧みることなく愛することができます。

あなたは、自分を愛してくださるキリストに出会いましたか。このお方と知り合い、このお方の愛を受け入れるために、第一歩を踏み出しましたか。キリストに自分をゆだねる決心をしましたか。聖書は、あなたの罪のためにキリストは十字架で死なれた、と語ります。このことを信じますか。

ここが出発点です。自分の罪を自覚し、キリストが自分の人生にとって必要不可欠だということを理解しましょう。キリストは失われた人を捜して救うために、この世に来られました(ルカ19:10)。このキリストに、神の愛を見出します。そして、このキリストに、パウロが語る本当の愛を実践する人生を見ます。キリストは、単に高い道徳基準を目指して生きるようにと私たちに促しておられるのではありません。むしろ、私たちの人生の中にご自身を現わそうと、私たちを招いておられるのです。

安全な場所

私たち兄弟は、ウェストバージニア州の山あいの町で育ちました。子どもの想像力をかき立てる自然の中で、ターザンのようにつるにつかまったり、世界名作劇場の「ふしぎな島のフローネ」の家族のように木で小屋を建てたりと、本や映画で見聞きしたことを実際に試してみました。お気に入りは敵を寄せ付けない秘密基地を作る遊びです。私の子どもたちもまた、毛布やシーツ、枕などで秘密基地を作り、想像上の敵に襲われない「安全な場所」を作って遊びました。安心安全な隠れ場を欲するのは、私たちの本能なのかもしれません。

反映し、投影する

画家シーギスムンド・ゲーツは「さげすまれた男」という作品で、ヴィクトリア朝時代の英国民を愕然(がくぜん)とさせました。その絵は、当時の英国民と思しき人々が死刑台で苦しむイエスを取り囲んでいます。しかし彼らは、商売や政治、恋愛など、自分のことに心を奪われ、救い主の犠牲に無関心です。イエスの十字架を見ていたユダヤ人同様、絵の中の人たちは、自分が見落としたものを分かっていませんでした。

共感疲労

第二次世界大戦中、家族と隠れ家で暮らした日々を綴った日記で有名なアンネ・フランクについて、ナチスの強制収容所生活を共にした人たちは「アンネの共感の涙は決して枯れることなく…、周りの人にとって祝福の存在だった」と語りました。学者のケネス・ベイリーはここから、アンネは「共感疲労」していなかったと結論づけています。

素晴らしいクライマックス

親のおかげでクラシックからカントリー&ウエスタンまで様々なジャンルの音楽に親しんで来たので、モスクワ国立交響楽団の演奏を聴きにモスクワ音楽院に足を踏み入れたときは胸が高鳴りました。指揮者に導かれてオーケストラがチャイコフスキーの名曲を奏で、テーマが徐々に発展して、力強い演奏が最高潮に達しました。劇的なクライマックス。まるで魔法のようなひと時で、客席は喝采の嵐でした。