印象か真実か
どう見えたかが事実そのものだ、という考え方があります。アメリカ人がそのように考えるようになったのは、1960年9月26日からかもしれないと言われます。その日、大統領候補のテレビ討論が初めて行われました。カメラに映ったジョン・ケネディは落ち着いていましたが、リチャード・ニクソンはピリピリしているように見えました。ケネディ氏のほうが強いリーダーのように見えたのです。その討論番組は選挙の行方を決定づけただけでなく、アメリカ合衆国の政治手法を変えました。見た目の印象が非常に重視される時代が到来したのです。
愛とは
婚約中の若者に「彼女を愛しているって、どうしてわかるの」と聞いたことがあります。含みのある質問でした。どうして結婚するのか、自分の本当の気持ちを探ってほしいと思ったからです。しばらく考えて、彼は答えました。「僕の残りの人生を彼女を幸せにするために使いたいと思ったので、彼女を愛しているとわかったのです。」私たちはそれから、彼の言葉がどういう意味か、自分ではなく相手の最善を常に求めるのは、高くつくのだということを話し合いました。本当に愛するなら、そこには犠牲が伴います。
避け所
マレーシアのクランにある教会の会堂に入ったとき、来訪者を歓迎する額の言葉を見て興味をそそられました。そこには、「重荷を負う者のための避け所」とありました。
使い捨て
私たちは、これまで以上に「使い捨て」の文化の中で暮らしています。カミソリ、ペットボトル、プラスチックのスプーンやフォーク、紙皿等々、少し考えるだけで思い当たるものがいくつもあります。私たちは、これらを使っては捨て、新しいものと取り替えます。
信頼するということ
下半身不随で18年間、車いすの生活を送っていた女性が、サーフィンに挑戦したというニュースがオーストラリアから入ってきました。彼女の名前はパスカル・ホノレ。けれども、どうやってするのでしょう。
神とともに永遠に
アメリカ南北戦争直前の不穏な空気漂う1859年のことです。アブラハム・リンカーンは、ウィスコンシン州ミルウォーキーの農業組合で講演しました。彼は、いつの時代でも、どのような状況にあっても真理であり、語るにふさわしい言葉を見つけよと命令された古代国家の賢者の話を紹介しました。王の無謀な命令に、賢者は次のように答えました。「そして、このことも、やがて過ぎ去っていく。」
へりくだりの図
イースターの季節に私たち夫婦が出席した教会の礼拝では、「洗足」が行われました。イエスが十字架にかけられる前の晩に弟子たちに示されたことを経験したいと、礼拝の参加者たちが願ったからです。礼拝の中で教会の牧師たちは、無給で奉仕している教会員たちの足を洗いました。それを見ながら私は考えました。今の時代、足を洗うか、足を洗われるか、どちらのほうがへりくだっているのだろう…。ここでは両者の謙遜は、それぞれ異なった形で表れていました。
シンプルさには力がある
アメリカで確定申告をする人たちの中で、税収業務の規則について理解しようと時間をかける人はほとんどいませんが、それにはもっともな理由があります。フォーブス誌によると、アメリカの課税者の分類コードが、2013年には400万を超えたそうです。実際、税法はどんどん複雑になっていて、専門家でさえ、すべての規則を正しく当てはめて処理するのは大変です。その複雑さ加減は、まったくもって厄介です。
のがれの町
オーストラリアのある町に行ったとき、「避難する場所を求めている方々を歓迎します」という看板がありました。この種の歓迎は、旧約聖書の「のがれの町」という考え方と一致しています。旧約聖書の時代、「のがれの町」(民35:6)というものがありました。間違って人を死なせてしまったために、復讐されないように保護を必要としていた人が逃げ込む町でした。神は、そのような場所を備えなさいと言われました。