飛行 シミュレータ
飛行機のパイロットは、飛行シミュレータで膨大な時間をかけて訓練をします。飛行シミュレータは訓練生に、飛行機を操縦する際に起こるかもしれない問題や危険を擬似体験させてくれます。訓練生は、地上から飛び立つことはありません。たとえ墜落したとしてもかすり傷ひとつなく、その場を立ち去ることができます。
安全ベルト
私ならば絶対にしないことに、最近トライした同僚がいます。バンジー・ジャンプです。その同僚の話は、興味深くも恐ろしくもありましたが、ゴムロープ一本で吊るされ、何十メートルもの高さから真っ逆さまに飛び降りるなど、どう考えても楽しいとは思えません。それはさておき、同僚の話によると、ジャンパーはゴムロープだけではなく、ふたつ一組の頑丈な装着帯をつけていて、それが命綱なのだそうです。確かな設計と過酷なテストをクリアした安全ベルトをつけることによって、彼は安心して谷に向かって飛び降りることができたのです。
前線で率いる
スティーブン・アンブローズの著書『バンド・オブ・ブラザーズ‐男たちの深い絆‐』は、米国陸軍E中隊を追ったノンフィクションです。ジョージア州での軍事訓練から1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦、そして、欧州戦勝の日までの軌道が記されています。この期間の大半、E中隊を率いたのはリチャード・ウインターズでした。ウインターズは、自分が先頭に立って部隊を率いる優れた指揮官でした。戦場のウインターズがよく言った言葉は、「俺について来い!」です。他の指揮官なら、自分は安全な場所にいて、部下たちが戦ったかもしれません。しかし、E中隊の場合、先頭にいるのは指揮官のウインターズでした。
「別に…」
子どもたちが中高生だった頃、教会のユースグループに参加させていました。ユースグループのあった日、「どうだった?」と尋ねると、彼らは「別に…」とそっけなく答えます。これが何週間も続いたので、私は自分の目で確かめることにしました。いつも迎えに行く体育館に早目に行って彼らの様子をこっそり伺ってみると、息子たちは、みんなと一緒に話を聞いたり、意見を言ったり、笑ったりして楽しそうでした。そこで、帰宅途中にまた尋ねました。「今夜はどうだった?」しかし息子たちは、また「別に…」と答えました。私は言いました。「父さんは見ていたよ。君たちは楽しそうにしていたじゃないか。」すると彼らは、「まぁ、いつもよりはましだったかもしれないね」と言ったのです。
まことの犠牲
エリックは善良で正しい人でした。警察官という職務は地域社会に対する奉仕だと考え、すべてをささげて忠実に任務に励みました。それが彼の信念だったということは、自分のロッカーのドアにヨハネの福音書15章13節のみことばを貼っていたことでも分かります。
主イエスはここで、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」とおっしゃっています。エリックにとって、これは絵に描いた餅のような理想ではありませんでした。これはまさに、彼の警察官としての責任感を表わしていました。そして、その強い責任感は、彼に殉職という究極の犠牲を支払わせました。自己犠牲の精神を身をもって示してくれたのです。
イエス・キリストは、ヨハネの福音書15章13節の鮮烈なみことばを語られてから数時間のうちに、ご自分のみことばを実行に移され、全うされました。二階の広間でこのみことばを語られたあと、イエスは、ゲツセマネで父なる神とひとつになって交わりを持たれました。そして捕らえられ、数々の非合法的な裁判を経て、あざけり笑う民衆の面前で十字架にはりつけになりました。
イエスは神の御子ですから、苦痛や拷問、残忍な仕打ちを逃れようと思えばそれができたでしょう。イエスは全くの無実でしたから、死刑になる筋合いなどありませんでした。しかし、真の犠牲のささげものであるイエスは、その原動力である愛にかき立てられるように、十字架に向かわれました。そのおかげで私たちは、イエスの犠牲とよみがえりを信じて受け入れさえすれば、自分の罪を赦していただけるようになったのです。
さあ、あなたのために死を選ばれた方を、あなたは信じますか。
本当のもてなし
私は1987年にカリフォルニア州のロングビーチの教会に赴任することになり、家族で南カリフォルニアに引っ越してきました。教会の秘書が空港まで迎えに来てくれて、私たちを牧師館まで送ってくれましたが、空港から外に出て最初に目に飛び込んできたものは、「カリフォルニアへようこそ…さあ、とっとと故郷に帰れよ!」という車に貼られたステッカーでした。陽光の降り注ぐ暖かい南カリフォルニアでしたが、その歓迎メッセージは決して温かいものではありませんでした。
さて、私たちもまた、このようなメッセージを周りの人に送ることがないでしょうか。教会や近所付き合い、または趣味の集まりなど、どんなグループにいたとしても、初めての人が居心地よいと感じられるように心を砕くことをせず、放っておいていないでしょうか。
パウロはローマ人への手紙12章13節で「もてなしなさい」と教えました。さらに、ヘブル人への手紙は、「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました」(13:2)と語っています。出会う人たちにやさしく親切にすることで、私たちは、救い主の招きを反映させています。つまり、「御霊も花嫁も言う。『来てください。』これを聞く者は、『来てください。』と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」(黙22:17)と聖書が語るとおりです。
温かくもてなしすることは、天国に続く道を示し、そこに向かって第一歩を踏み出す手助けをすることにつながるでしょう。
モンマのルール
モンマ・チャーリーという素晴らしい女性に会いました。彼女は裁判所の判断で10人以上の里子を託され、彼らを育ててきました。彼らに安心、躾、そして愛のある家庭を与えてきたのです。彼女は、新しい子どもが来るとまず「モンマのルール」を説明します。それは、彼女の家の子としてやって良いことと悪いことの決まり、そして、その子にあてがわれる家の手伝いです。確かに、この忙しい家にはみんなの手伝いが必要です。しかし同時に、小さいときからろくに躾られていない子どもたちにとって、家の手伝いは責任ある行動について学ぶよい機会です。
「モンマのルール」は楽しい暮らしを奪うものだと感じて、「え~!うそ!!」という反応をする子もいます。しかし、モンマの考えが正しいのです。これらの規範があってこそ秩序ある家庭生活が営まれ、子どもたちは、家庭の安らぎと楽しさを体験できます。
同じように、聖書に記されている神の規範は、人生の楽しみを邪魔するものだという人がいます。しかし、やって良いことと悪いことを神が定められたのは、悪に引き寄せられる傾向から人を守り、ご自分との健全な関係が育っていくように人を導くためです。
パウロはエペソ人への手紙4章で、どのように生きるべきかという模範を示しています。神の教えや命令に従って生きるならば、私たちは守られ、永遠に続く本物の喜びを体験するでしょう。
恐れを覚えるとき
長男が生まれたときは大変な難産で、30時間以上もかかりました。その日の医師は妻の担当医ではなく、代理の医師だったので、妊娠中の経過をよく知りませんでした。その結果、緊急帝王切開を行う決断をするまでに時間がかかりすぎました。息子は大変な状況を経て深刻な状態で生まれてきたので、すぐに新生児集中治療室に入れられました。ところが、この小さな命が難産によって引き起こされた深刻な症状を乗り越えていくために、医師ができることは何もなかったのです。しかし、神のあわれみにより、息子は回復していきました。
あれほどの恐怖を味わったことは、後にも先にもありません。私は、集中治療室のベビーベッドのかたわらで凍りついていました。しかし、祈り心で神に語りかけるなら、神がそばにいてくださるという確信がありました。
人生で恐れを覚えるとき(そのほかのどんな時にでも)、神のご臨在を実感し、神が心配していてくださると分かるならば、痛んでいる心に大きな慰めが与えられます。詩篇の作者であるダビデは、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」と賛美しました(詩23:4)。
恐れに圧倒されるときでも、神はそばにおられます。神のなぐさめは、試練の谷を抜けるまでずっと一緒に歩んでくださいます。
素晴らしく作られている
最近、目の検査を受けたとき、今まで見たこともない装置が運ばれてきました。医者にそれは何かと聞くと、「この装置を用いて、あなたの目の奥の内側の写真を撮ります」という返事でした。
そんなことができるカメラが発明されたことに驚きましたが、その写真から得られる情報には、さらに驚かされました。医者は「目の奥を見るだけで現在のあなたの健康状態が分かりますよ」と言ったのです。
目の状態を見ると、全身の健康が判断できるというのは驚きです。神はこのように、細部にまで配慮して人の身体を創造されたのです。ダビデの詩の一節が浮かびました。ダビデは詩篇の中で「私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています」と語り、神の創造の御業をたたえました(詩139:14)。
私たちの身体は、非常に複雑にできています。これは創造主の偉大な英知の反映です。神のデザインの素晴らしさは、息を呑むばかりです。さあ、神をあがめ、礼拝しましょう。