常に準備を
帰省していた息子が、ある朝私の書斎に来て「何をしているの」と尋ねたので、「日曜学校の準備をしているんだ」と答えました。そのときふと、書斎にいるときはいつも何かの準備をしていることに気づきました。私は、神が福音のために私を用いてくださっていることを感謝していますが、常に他人のために準備を整えておかなければならないのは、それなりのストレスがあります。私には大学の授業や教会のメッセージ、さまざまな提出書類の準備があるので、優先順序を正しく整えるのは容易ではありません。
そんなこんなで、準備について聖書が何か語っていないだろうかと興味をそそられ、調べてみました。すると、私たちは「常に準備をしておくように」と命じられていました。神に心をささげた人とは、いつでも神に用いられるように準備している人のことです(Ⅰサム7:3)。私たちには、よいわざを行う準備(Ⅱ テモ2:21)や霊的な真理を攻撃から守る準備(Ⅰペテ3:15)が必要です。また使徒パウロは、計画を立てて献金する準備をしなさいと教えています(Ⅱ コリ9:5)。
これは始まりにすぎません。神に喜んでいただく人生とは、知性や霊性の準備を怠らず、肉体の健康にも配慮した生き方です。しかし、だからといってストレスを感じる必要はありません。なぜなら、神が御自身の力で、私たちを導いてくださるからです。
神に導かれて準備しましょう。そして、神に仕え、神をあがめ、人々にイエスを伝えていきましょう。
ただであげます
信じられないような大金を「あげます」というメールが毎日送られてくることに驚いています。先日、1週間分の金額を合計してみたところ、私の取り分は約20億円になりました。しかし、「賞金は100万円」も、「1千万円差し上げます」も、すべてはお金をだまし取ろうとする悪い人たちが送信しています。
私たちはみな、ただには弱いものです。けれども現実には、ただほど怖いものはない、という言葉のとおり、詐欺行為の場合がほとんどです。偽りの希望を差し出され、その夢は打ち砕かれてしまいます。
一方で、信じがたいほど良いにもかかわらず、正真正銘の話がひとつだけあります。それは、神が提供してくださった福音です。イエスが十字架上で成し遂げられたわざを信じれば、たましいの救いが与えられるという知らせです。聖書は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と語ります(使16:31)。このような救いを提供するために、神は非常に大きな犠牲を払われました。一方、私たちは非常に大きな恩恵を受けたのです。ローマ人への手紙は、「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」と語っています(ロマ4:25)。
この救いを受け取るなら、永遠のいのちの望み(テト1:2)、神との平和(ロマ5:1)、罪の赦し(エペ1:7)、限りなく豊かな恵み(エペ2:7)、そして、あがない(エペ4:30)が与えられます。この取引きは詐欺ではありません。イエスの死と復活がそれを保証しています。
お金
マリリンとスティーブンは結婚したばかりで、生活にゆとりはありません。しかし、マリリンはベッドカバーが傷んでいるのを見て、買い換えたいと思いました。クレジットカードで支払って、引き落とし日までには、何とかお金を作ろうと考えていました。
ところが、その日のデボーションの聖書個所を見て驚きました。それは箴言22章27節で、「あなたに、償うものがないとき、人があなたの下から寝床を奪い取ってもよかろうか」だったのです。マリリンは、お金の当てが確かでないのに、ベッドカバーを買うのはやめようと思いました。
お金の使い方は、私たちそれぞれと神との個人的な問題ですが、簡単ではない問題です。しかし神は、私たちを助けずに放っておいたりなさいません。神は言われます。「あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ」(箴3:9)。また、「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」とも語られます(マタ6:24)。
この真理を心に留めて、お金の賢い使い方を、他のみことばからも教えていただきましょう。例えば、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい」(ルカ12:15)、また「借りる者は貸す者のしもべとなる」(箴22:7)というみことばがあります。さらに、テモテへの手紙第一は「惜しまずに施し、喜んで分け与えるように」(6:18)と教えています。
お金は大きな問題です。私たちのすべての必要を満たしてくださる神は、神に栄光を帰すお金の使い方とはどういうものなのかも、きちんと教えてくださいます。
代理人は不要
サンディエゴにいる息子のスティーブのところに滞在していたとき、デビッド・ジェレミア博士の礼拝メッセージを聞きにシャドウ・マウンテン教会に行くことにしました。息子とふたり、日曜日の朝早起きして、車で1時間かけて教会に行ったのですが、ジェレミア博士は不在だと聞いてがっかりしました。代理の「だれかさん」が礼拝説教を取り次いでいました。
それから2週間後、私は、自分たち夫婦が通っているグランド・ラピッズの教会で礼拝メッセージをしました。その朝、会衆の前に立ったとき、私は自分があの「だれかさん」だと気づきました。この教会の牧師のメッセージを聞こうとしてやって来たのに、登壇したのが私だったので、がっかりした人がいるかもしれないと思いました。
頼りにしているいつもの人が、いつもどおりいてくれると安心ですが、ときには代理人が立てられることもあります。私たちは、そのことを分かっていなければなりません。しかし、私たちが最も必要としているお方、私たちにいのちそのものを与えてくださる主は、いつも私たちのそばにおられます(詩139:7-8)。祈って神のご臨在にふれたいと思うなら、神はあなたのかたわらにおられます。「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる」と聖書は語ります(55:17)。
神を探しているのですか。神はいつもおられます。神に代理人は不要なのです。
全部は出来ない
ベッドに入る前、4歳のエリアーナは母親と一緒に自分のものを片づけていましたが、「ベッドの上の洋服を片付けなさい」と言われてかんしゃくを起こしました。小さな手を腰に当てて、「全部できないわよ」と怒鳴りました。
神に召されたことをしているとき、この子のように感じたことがありますか。教会の奉仕をし、良い証を立て、子育てもして、いっぱいいっぱいです。イライラし、ため息をついて、「主よ、全部はできません」と祈ります。
けれども、神の教えを見るなら、ギリギリまで頑張ることが期待されているのではないと分かります。例えば人間関係について、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」と言われました(ローマ12:18)。「自分に関する限り」という条件が付いています。神は、私たちの限界をご存じです。また、「何をするにも、人に対してでなく、主に対してするように、心からしなさい」と言われ(コロ3:23)、人にすごいと思われるような完璧さはなくても、神にささげるつもりで仕事をしなさいと語られます。さらにもうひとつ加えれば、「おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう」と言われ(ガラ6:4)、他人と競うのではなく、ただ負うべき自分の荷を負いなさいと教えられます。
神の知恵によって、神は各人に備えをくださいました。それによって、私たちはそれぞれ、神がして欲しいと思っておられることをするのです。これは決して全部ではありません。
見られている
高校時代の挫折体験から数十年がたちました。当時、バスケットボールは私にとって非常に大切なことでした。中学時代から代表選手で、何百時間も練習してきました。ところが高校最後の年、私は代表選手に選ばれなかったのです。失意のどん底に突き落とされました。
私は心乱れたまま、記録係としてチームに同行しました。、そして、州大会を戦う仲間が、リバウンドボールを取ったりシュートを入れたりするのを記録しました。正直なところ、チームメートたちが私をどんな目で見ているのか、考える余裕すらありませんでした。日々をこなすだけで、精神的に精一杯だったのです。
そういう状況だったので、当時の同級生たちが弟に言ったことを聞いて驚きました。彼らは、「クリスチャンは違う」、「あれがキリストの姿なんだね」と言っていたそうです。私は、自分の状態を覚えていないので、「私を見習ってください」と言うつもりはありません。むしろ、自分が意識していようがいまいが、私たちは人に見られている、と言いたいのです。
パウロはテトス3章1~8節で、神が造り変えてくださる人生がどのようなものなのか、説明しました。それは、イエスを通して新生し、注がれた聖霊によって更新された人生です。その新生と更新の結果、敬意、従順、親切という品性が、その人に与えられました。
私たちが聖霊に導かれた人生を生きるなら、神は私たちを通して、ご自分を現されます。
栄光の冠
宇宙探査機ボイジャー1号は1977年に打ち上げられ、地球から180億キロメートル以上離れた太陽系の果てを飛行中です。1990年2月、科学者たちは地球からおよそ60億キロメートル地点にいたボイジャー1号のカメラを地球の方に向けて写真を撮りましたが、その写真は、私たちの住む地球が宇宙の大海原に漂う青い微小な点であることを明らかにしました。
この広大な銀河の大海原のちっぽけな石ころの上に、70億人以上の人が住んでいます。
これが現実なのだから自分は取るに足らない存在だ、と思いますか。それなら良い知らせがあります。聖書に耳を傾けてください。
ダビデは詩篇の中で、巧みな言葉で問いかけています。これを読んだあと外に出て夜空を見上げるなら、喜びに心がふるえるでしょう。詩篇8篇3節から5節は、私たちは神の目に夜空の星より大切な存在だと語ります。「あなたの指のわざである天を見、…人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。…あなたは、…これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」このみことばを深く心に留めましょう。神は、ハッブル望遠鏡でも端の見えない広大な宇宙に命令を下されるお方です。このお方が、あなたを創られ、あなたに心を配っておられます。あなたを深く愛しておられるので、御子イエスに、天国から下り、あなたのために死んで欲しいと言われたのです。
不思議と驚きをもって、神の被造物を見上げましょう。そして、神の御子イエスを通して栄光の冠をかぶらせてくださった神を賛美しましょう。
不可解な真実
無限の神が、有限の人間にご自分の心を伝えようとなさっても、その結果は不可思議としか見えないことがあります。その一例は詩篇の一節、「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」(詩116:15)です。一読では納得のいかない、むしろ疑問の深まる個所です。
そんなことがあるだろうかと思ってしまいます。私たちは持って生まれた肉の目でものごとを見ます。そして、最愛の17歳の娘を交通事故で奪われた私は、このことの何が「主の目に尊い」のだろうと思います。愛する人を奪われた人はみな、そのように思うのではないでしょうか。
けれども、主の目に尊いとは、地上の恵みを受けることに限定されないと考えるとき、この謎は解明されていきます。このみことばは、天国の視点に基づいています。例えば、私は詩篇139篇16節を読んで、娘のメリッサが天国に入ることは予定どおりだったと納得することができました。神は彼女の到着を心待ちにしておられ、それは「主の目に尊い」ことでした。また、ご自分のところに迎え入れられた神の子どもたちが、長子であるイエスと対面して感動に酔いしれるとき、その姿をご覧になった天の父である神は、どれほど嬉しいことでしょう(ヨハ17:24参照)。
キリストを信じる人が死ぬとき、神は、両手を広げてご自身の臨在の中に、その人を迎え入れてくださいます。私たちは涙を流しますが、それでも、その人の死が神の目にどれほど尊いかは理解することができます。
罪人が行くところ
私の友人は、あるとき、キリスト教を毛嫌いしている人と信仰の話をしていました。いかにもクリスチャンという証をしたら、ひどい拒絶反応が起こるだろうと分かっていた友人は、話の途中でこう問いかけました。「なあケンジ、じゃあ罪人はどこに行くか知ってるの?」
友人は答えました。「そんなの簡単さ。地獄だろ?」「いや。教会に行くんだ。」
予想外の答えに、ケンジはあっけにとられました。自分の不完全さを率直に認めるクリスチャンを前にして、どう返答すべきか分からなかったのでしょう。私の友人は証のチャンスを得ました。そして、クリスチャンは自分も罪深く、常に霊的に修復されなければならないと分かっている、と話しました。また、神の恵みについても説明することができました。神の恵みとは、罪人の私たちに分不相応な、神のあわれみの行為です(ロマ5:8-9、エペ2:8-9)。教会の外の人たちは、本来の教会をイメージできるでしょうか。「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得て」(コロ1:14)いると信じる人たちが、救い主をたたえるために集まっているところが教会だ、ということがうまく伝わっているでしょうか。そうではないかもしれません。
そうです。罪人は教会に行きます。そして、赦された罪人は、神の恵みによって天国に行きます。