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Dave Branon

Dave Branon

デイブ・ブラノン氏は、Discovery House Publishersの編集者です。これまでに、15 冊の著書を執筆しました。ブラノン氏と妻スーの趣味は、ローラーブレイドです。また、子どもや孫たちとの時間を大切にしています。

寄稿一覧 Dave Branon

それでも希望がある

デイリーブレッドに1988年以来、多くのデボーションエッセーを書いていますが、忘れられないものがいくつかあります。ひとつは90年代半ば、娘3人がバイブルキャンプや宣教旅行などに行き、6歳の息子とふたりで空港見学に行った話です。息子は振り向いて「メリッサがいないとあまり楽しくないね」と言いました。二歳年上の姉で彼の相棒です。

神の偉大な創造

孫が泊まりに来てくれたので、鷲の家族の日常風景をいっしょにネットで見て楽しみました。フロリダ州の鷲の一家を、ウェブカメラで観察しているサイトがあるのです。私たちは毎日、高い場所にある巣の中の様子を観察しました。父鳥と母鳥は、毎日、子どもをしっかり見守り、近くの川から魚を捕って来て、食べさせています。

暖かい歓迎

スティーブに癌が見つかりました。しばらく教会に行けないと分かり「誰がみんなをハグするんだい」と言いました。スティーブは暖かい握手と「聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい」(ロマ16:16)を現代風にした「聖なるハグ」で教会に来る人を暖かく迎えてくれる人です。私たちはスティーブの癒しを祈っています。一方、スティーブ自身は、自分が手術や治療で教会から遠のいている間に、暖かい挨拶が教会でなおざりにならないように願っています。

交わりが途切れる

全地が暗くなり、やがて悲しみにあふれた叫び声が響きました。十字架のもとにいたイエスを愛する人たちの嘆き声も、イエスの両側ではりつけになった犯罪者のうめき声もかき消してしまい、全ての人が驚いたに違いありません。ゴルゴダの丘で十字架にかけられ、イエスは苦悩と恥と絶望の中で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。それは「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です(マタ27:45)。

パパの規則

聖書のみことば:エペソ6:1-4

父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。 —コロサイ3:21

三人の娘を持つ父親である私は、「デートに関するパパの規則」と題されたEメールに目を留めました。それは、自分の娘とデートしたいと思っている男の子 に向けた父親からの10か条で、皮肉とユーモアたっぷりに表現されています。父親の立場から見て、うなずける真理と知恵が満ちていました。

たとえば第1条は、「家の前に車を止め、クラクションを鳴らして人を呼び出すのは、宅配便を届ける場合に限る」。言い換えると、「礼儀正しくふるまえ」ということです。「娘にはさわるな」「早めに家に送り届けよ」「娘を尊重しろ」など、父親ならどの規則にも同感します。

親は我が子を守らなければなりません。神が私たちを信頼して、子どもを任せてくださったからです。今の世の中は性道徳が乱れ、慎ましさに価値を置かなくなっています。ですから、私たちはそのただ中にいる子どもたちを守らなくてはなりません。

エペソ6章4節のみことば、「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」は、実行が難しいながらもバランスの取れた大切な教えです。私たち大人が、神の道徳基準を子どもたちに正しく教え、同時に自分自身がそれを実践すれば、子供たちをいら立たせたり、失望させたりすることはありません。

子どもたちをいら立たせるのではなく、教えましょう。

子どもたちに教えるために、神から教えられよう。

数秒

メリーランド州のゴダード宇宙飛行センターの科学者たちは、米国東部時間で2016年が終わるとき、うるう秒を加えました。つまり、1秒だけ長くしたのです。もし、その年は普段より長い1年だったと感じた人がいたなら、その通りだったのです。

究極の勝利

荒れ野でのサタンの誘惑は、その3年後、また一連の試みとなって戻ってきた。夜の闇の中、イエスはゲツセマネの園で捕えられる。その後に、この上ない試練が待ち受けていた。イエスは一人ぼっちだ。というのも、「そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった」(マタイ26:56)からだ。そして、ユダヤ教の指導者らの前で、大祭司カヤパのもとに引き出される。

弁護人がいないイエス対最高議会サンヘドリンという闘いだ。そしてカヤパが、罪状をでっち上げる。イエスの最初の応対は、沈黙だ。偽りの罪状を聞いても、イエスは落ち着いた様子。そこで、大祭司が、イエスに答えるよう命ずる。イエスは、このような悪に対してさえ悪で応じることをせず、全て真実のみを述べられた。

イエスがご自分と神との関係を認められた時、敵対する者たちは、これほどひどい神への冒涜(ぼうとく)はないと衝撃を受けた。そして彼らはイエスの死刑を要求する。

その日、イエスに課せられた試みやでっち上げの罪状は、あたかも、イエスの悲痛な敗北を意味するかのようだった。しかし、聖書の預言が満たされ、父なる神のご計画が全うされるためには、真実を語ることと沈着を失わないことをイエスは悟っておられた。

そしてイエスは、非難する者達にあざけり笑われ、侮辱的な言葉を浴びせられ、暴力的に扱われ、死刑を宣告されながらも、自信をもって対応された。今になってみれば、粗末な十字架上で、耐えがたい苦痛と屈辱に遭いながらも、最後にはご自分が勝利することをイエスがご存知だったのは明らかだ。

そうすると確かに、これは片方にとってアンフェアな競争と考えることができる。イエスに死刑宣告した統治者や死刑執行に関わった者達は、最初からこの闘いに勝てるはずはなかった。

ゴルゴタの丘でのイエスの死は、空前の逆転勝利となった。

イエスが、アリマタヤのヨセフの所有する墓地に埋葬された時、イエスを殺した者達は、 勝利の幻に酔いしれた。しかし、彼らの祝宴は数日と続かない。わずか3日後、イエスは死と敗北の壁を砕き、空前絶後の勝利者としてよみがえった。イエスが墓からよみがえった時、誰でもイエスを信じる者は、代価を払わずに神と和解し、永遠のいのちをいただける、という恵みを勝ち取ったのだ。

さて、虐待や拒絶、極度の苦しみにも関わらず、イエスが勝利をおさめられたという事実をよく考えてみれば、イエスが身を持って示された生き方や、みことば、そして犠牲は、人生の競争における深い洞察を与えてくれるだろう。

競争社会を日々生きていく中にあっても、父なる神との絆を取り戻し、確かなものにしてくださった唯一のお方、イエス・キリストに対して誠実に生きていくことができるように祈ろう。

私たちは、限りある資源を奪い合う競争社会に生きている。だから、日常生活や人生のあらゆる機会を通して、私たちの希望と自信のよりどころは、唯一の神であることを表わそう。どんなチャンスも無駄にすることなく、この神こそ、日々の恵みを与え、将来の究極の勝利を約束してくださると伝えよう。Dave Branon

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究極の競争者の原則

それでは、イエス・キリストに従う競争者の姿とはどんなものだろう。それは、イエス・キリストご自身のような姿だ。ただし、クリスチャンによって作り上げられた滅菌消毒をしたような清いイメージ、またはクリスチャンでない人々によってイメージされる白く長い衣をゆるやかにまとい、実社会には無関心で、孤立したおとなしい優男というイエス・キリストではない。これらのイメージは、実際の福音の物語とかけ離れている。例えば、祈りの家であるべき宮をまるで盗人の隠れ家のように扱った者らを追い払ったりしたイエスは、実に荒々しい。また、ユダヤの不毛の荒れ地を歩き、40日間も断食を続け、敵と真正面にぶつかったのだから、頑強そのものだ。

歴史に名高い、善と悪の闘いの場面を考えると、あることに気付く。この対決に、イエスは応援もなく、一人で立ち向かったわけではない。主イエスと敵対者との決闘の直前、イエスは、天から響く父なる神の御声によって、聖なる業を奨励された。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3:17)という神の御声が下った。

だから、誘惑が起こった時、イエスは敵に立ち向かう強靭(きょうじん)さを示されたばかりか、競争の世界でも品位を保って生きるとはどういうことか、身を持って教えてくださったのだ。

それでは、イエスを敗北させようとしたサタンの試みについて、マタイはどのように述べているか、見てみよう。

さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、 神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた (マタイ4:1-11)。

このように、試みる者は、3度もイエスを誘惑しようとした。しかし3度とも、イエスは旧約聖書の申命記から適切な聖句を引用して、敵に立ち向かった。その過程で、イエスは誘惑に打ち勝っただけでなく、名誉を持って、競争社会を生き抜くための原則を教えてくださった。

誰もパンだけで生きてはいけない

悪魔は最初、石をパンに変えることで神の子であると実証するよう、イエスに迫った。 それに対してイエスは、どんな競争者の人生をも光り輝くものとするような究極の自信で応じられた。イエスは、こう言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」(マタイ4:4、申命記8:3)。

これは昔、神の民が40年もの間、砂漠や荒れ野をさまよったとき、神ご自身から必要なものを民に与えてくださったことを指している。

その時の原則は、今も変わらない。私たちは、自分の力だけで生きているのではない。 また、食べ物や金の力だけでは生きられない。私たちは、神のご慈悲や恵みのお陰で、減ってゆく限りある資源の世の中に生きている。その知識こそが、勝ち負けに左右されない、私たちの自信なのだ。

神の恵みに対して付け上がってはいけない

サタンの二つ目の誘惑は、神殿の尖塔上で繰り広げられた。神とのきずなを証明するために、イエスに飛び降りるよう、サタンがささやいた。要約すれば、「あなたが本当に人々の待ち焦がれた救い主、メシヤなんだったら、飛び降りて実証しなさいよ」と言ったわけだ。「神の子なんだったら、父なる神が天使を送って守ってくださるはずでしょう。」

イエスはそれに対して、「あなたの神である主を試みてはならない」(マタイ4:7、 申命記6:16)と反論された。この引用は、ユダヤの法律の中で、モーセがイスラエルの民に対して、他の邪教の神に従っておきながら、同時に真の神の恵みを受けられると間違っても考えるな、と教えた部分だ。

その原則は、私たちの社会にも当てはまる。闘いの熱気の中で、「自分のことは自分で守らなきゃ」という悪魔のささやきに耳を傾けてしまってはいけない。

「自分をちゃんと守らなきゃ、誰もあんたの面倒なんか見てくれないんだから。大丈夫、ちょっといい加減にやったり、ルール違反したぐらい。どうせ、みんなやってるんだから。それに、神さまだってわかってくれるよ。本当に愛の神なんだったら、許してくれるってば」というのが悪魔のささやきだ。

しかし、そんなやり方が、神に対して忠実でないこと、自信と名誉を掲げて競争社会を歩んでいく生き方とはかけ離れていることを、イエスは教えてくださった。

神のみを信頼し、礼拝せよ

サタンの三つめの誘惑は、一番大きい誘惑だ。自分にひれ伏して拝めば、闘うこともなく、世界を手にすることができる、とサタンは言った。

しかし、またもやイエスは神の深い知恵とみことばだけに頼って、この誘惑をはねのけた。そして、こう言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある」(マタイ4:10、申命記6:13)。

人生で特に激しい競争におかれる時期には、私たちは勝利とか、金銭、名声などといったものをついつい、神のようにあがめてしまう。世間は敗者に冷たいと知っているからだ。だから、世間で神のように扱われるものにひれ伏し、それを拝んでしまう。

しかし、愛に満ちた天の父なる神は、自分の都合に合わせて、神を信頼したり、しなかったりしてはいけない、といさめてくださる。

イエスは、主なる神のみを拝み、至高の誉れを神のみにささげることが、最大の自信につながることを教えてくださる。Dave Branon

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自信をもって競争するために

公正な競争の基準が、ただ単に規則を並べただけではないことがわかるようになれば、つまり、基準とは宇宙の創造主の知恵と特性に基づいたガイドラインを表すものだとわかれば、選手たちは、自信をもって競争するとはどういうことか、理解できるようになる。そうすれば、自分の幸せが契約や議論、または試合の勝ち負けに左右されるのではないことを知った上で、競争社会を生き抜いていける、という事実を共に発見することができるはずだ。

限りある資源の奪い合いに集中するよりも、私たちを守ってくださる神の果てしないお力に目を向ければ、私たちは、自分だけでなく、皆にとって良い形の競争ができるようになる。

アメフトの競争は獰猛(どうもう)なまでに激しいが、その真っただ中で尊厳をもって生きていくとはどういうことか、ある監督はよく知っている。彼の名は、トニー・ダンジー。インディアナポリス・コルツを2007年のスーパーボウルで優勝に導いた男だ。NFLの監督というキャリアを通して、ダンジー氏はプロフットボール界の重圧のただ中にいるクリスチャンであることが、自分の生き方だと自覚していた。それゆえに、クリスチャンを懐疑的な目で見る周囲に対して、例えば冷静な振る舞いや誠実で穏やかな言葉遣いなどを通して、信仰を持って生きることがただ単に「OK」なだけではなく、激しい競争社会を生き抜くためには、むしろ最適なのだということを示している。ダンジー氏は、「静かなる力」というベストセラー著書の紹介インタビューの中でこう語っている。「主があなたをどこに置かれようと、あなたが今居るその社会で、インパクトを与えることができるのです。」

勝敗だけにとらわれずに自分のベストを尽くすことが可能だ、ということをあなたの競い方で示せば、あなたはあなたのいる社会で大きな影響を与えることができる。

私たちと同じように、ダンジー氏だって完全ではない。しかし彼は、自分の良心や品性を、一時的な成功という偽りの神にささげるようなことはしない、と固く決心した一人だ。試合の場で競技を超越した信仰を示すことにより、ダンジー氏は上から力を与えられた。彼はその力によって、試合を大切にしながらも、より高いものを目指すことができる。

尊厳を持って競争する

伝説のNFLの監督、ヴィンス・ロンバルディ氏は、「勝つのが全て、じゃない。勝つことしかない」ということばで有名だ。その言葉の意味については、いろいろ議論があるが、彼の発言は一般に、勝ち負けではなく試合の仕方が最も大切なのだ、という方針に真っ向から対立する考え方として引き合いに出される。勝つことが全て、という考え方は、「勝つことではなく、(試合に)参加することに意義がある」という近代オリンピックの信条にも反する。

ここで、勝つためにベストを尽くし、結果がどうであれ、良心や誇りや信頼を保つことが、自分や回りの人々にとってどれだけ大切か、注意深く考えるべきだろう。試合や人生の様々な場面で、勝つためにできる限りのことをしなければ、信仰を持つ人々にとって、自分や競争相手、そして神を敬うことにはならない。 勝つことは全てではないが、試合や人生のチャレンジを投げ出すのは、尊敬に値しない。

勝つために走れ

コリント人への手紙第一9章24節で、パウロは当時の読者に分かりやすい例話を使って話している。それは、現代のオリンピックのようなイベントで、イストミア祭と呼ばれる。このような競争環境を念頭に、パウロは「あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」(24節)と書いたのだ。

イストミア祭の出場選手達は、競争に勝つため一生懸命訓練する中で、二つのことを学んだ。第一に、優勝者はたった一人だということ。第二に、賞品は、どんなものでもいずれ朽ちてしまうということだ。

パウロは、朽ちることのない永遠の賞を勝ち取るために、人生のレースを走ることがいかに大切か、語っている。イストミア祭の選手達は、「朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」(25節)とパウロは書いている。

イストミア祭の選手の例とパウロが示した霊的な応用の例に共通することは、勝つための努力だ。そして、読者に対し、一生懸命競争するように促している。全ての競争相手に対し、またあらゆる障害に対して競争し、神に認めて頂くという目的に向かって走れ、というのだ。公正なレースでは、事前に勝利が保証されている人は誰もいない。ただ、怠け者が勝つことはない。自分を過信する選手や、言い訳ばかりで全力を尽くさない選手に勝利が与えられることもないだろう。オリンピック、ビジネス、または受験と同じことが、信仰の偉大なレースにも言える。

強さをもって競争すること

キリスト者の中でも、特に激しい競争の中にいるクリスチャンは、勝利者になるには、 優しすぎるとか、いい人すぎるとか、いろいろな批判を受ける。それに対する反論として、実際、様々な競争において、名誉と誇りを保ちながら勝利を勝ち取ったクリスチャン達の名前を挙げてみよう。

ファーストフード産業の「チックフィレ」社長、トルエット・キャシー。元オリンピック体操選手のメアリー・ルー・レットン。映画やテレビ製作のケン・ウェールズ。クリスチャンは弱いなどという噂を物ともせずに、信仰を持って競争社会に立ち向かってきた人たちのリストは、更に続く。

さて、テモテという名の青年に向かって、パウロはこう書いている。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」(IIテモテ1:7)。テモテはどうやら、時々不安でたまらなくなることがあったようだ。それは、パウロがコリント人への手紙第一の中で、コリントの教会の人々に言った次のような表現の中に見受けられる。「テモテがそちらへ行ったら、あなたがたのところで心配なく過ごせるよう心を配ってください」(16:10)。テモテへの手紙第二の中でパウロは、神がテモテにお与えになった仕事をきちんとやらなければならないと告げている。これを聖書解説者のヘンドリクセンは、「自分の不安と立ち向かいなさい」 ということだ、と説明している。また、テモテがそうできたのは、信仰を持つ者の内に住まわれ、力や愛、そして自己修養の源となってくださる神の聖霊のおかげだ。

パウロの励ましの言葉は、テモテのみならず、私たちにも語りかけられている。神が、 神を信じる全ての人々に、いつでも勇気の霊を与えてくださる、ということに気付かせてくれる言葉だ。

ピリピ人への手紙に、パウロはこう書いている。「私は、私を強くしてくださる方 (キリスト)によって、どんなことでもできるのです」(4:13)。彼が言いたかったのは、神が、神の民に何でもやりたい放題させてくださるということではない。パウロは、富める時も、貧しい時も、どんな時でもパウロ自身の中で、またパウロを通して行われる神の御業に満足することを学んだ、と言っている。

これは、私たちに何を教えているのだろうか。私たちのいのちと力の源は、日々の勝敗の結果ではなく、神にある、ということだ。世界の始まりから今日まで、競争の真っただ中にあっても神を信頼し、敬う人々は、変化の激しい状況の中にさえ、恵みと希望を見いだしてきた。

良い勝利者になること

自分の人生とか幸せとか存在価値とかは、全て勝利だけにかかっていると考える人に出会うことがある。彼らにとっての神とは、勝つことに他ならない。だから、品位をもって負けを認めることがなかなかできない。負けた時、言い訳をしたり、他人を責めたり、すねたり、フェアじゃないと不平を言ったりする。こんな選手は、ファンをがっかりさせ、競争自体をつまらないものにしてしまう。しかし、彼らの気持ちや痛みがわかるような気もする。私たちだって、負ける悔しさは、十分経験している。

それよりもっと問題なのは、品位をもって勝つことを知らない人々だ。もし、私たちもそんな一人だったら、自分の技術や努力の程度を測るために競争しているにすぎず、競争は、神がくださった大切な機会だということを理解していない可能性が高い。その結果、人をがっかりさせたり、勝利にうぬぼれたりして、競争そのものの価値を下げてしまうことだろう。

そんな人間になるより、パウロと共に次のように言えた方がよっぽどいい。「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」(ピリピ4:12)。

このように満ち足りた心を持っていれば、勝ったときの喜びは恵みにあふれ、負けたときの失望の痛みは和らげられる。その根っこにある確信とは、次のようなものだ。本当に大切なことは、どんな良い物も、どんな良い経験もすべては神からの贈り物だと気付くことだ。

謙虚さをもって競争すること

2003年のこと、私の娘、メリッサの通っていた高校が、メリッサ・ブラノン記念ソフトボール場のそばに、若くして亡くなった彼女を偲ぶ銘板をかけたいと言って来た時、私たちは次のような聖句を入れてください、とお願いした。それは、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い(なさい)」(エペソ4:2)というものだ。学生スポーツの選手として、彼女はそんな風に競争した。一般の競争でよくみられるプライドや敵対心とは、全く対照的なやり方だ。ラドヤード・キプリングの有名な詩、「IF(もしも)」のなかに、「謙虚で優しい勝利者は、勝利と惨敗に出くわした時、どちらの虚像にも全く同じように接することができる」とある。こういう勝利者の正しい態度について、詩の後半にはこう描かれている。「徳を保ちながら大衆と話し、庶民性を失わずに王達と並んで歩ける」。良き勝利者は、勝っても負けても、同じ態度だ。キリストのような謙虚さと、辛抱強さ、愛をもって生きている。

公正・誠実に競争すること

人生が勝ち負けで決まるわけではないことをよく知っているならば、神を信頼しているという姿勢を貫くことができる。

それと対照的に、どうしようもない負け犬たちと言えば、ここ何十年を振り返って、名誉やフェアプレイより勝利に固執した人たちだ。

例えば、スポーツ界の例(メダルを勝ち取った後に、ドーピングが発覚したオリンピック選手たち)や、ビジネス界の例(大金持ちになったが、不法行為がばれて捕まり、何億円もが泡と化してしまった者たち)、そして、悲しいかな、教会の例(信仰を礎とする社会で、この上ない尊敬を集めたにも関わらず、スポーツやビジネス界、政界に見られるのと同じような罪の誘惑に負けて失脚した指導者ら)などの例がある。

キリストの使徒パウロが書き残した教えは、あらゆる場面に当てはまる。例えば、「競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません」(IIテモテ2:5)。

フェアプレイのルールを守ることは、健全な競争の中核をなす。これは最も重要な部分だ。だからこそ、スポーツ選手のドーピングが大事件として取り上げられるのだ。また、公務員の縁故採用汚職が告発され、罰せられる。また、株のインサイダー取引によって、不法な利益を得た者らに実刑判決が下される。政治においても、選挙違反を防ぐため、念入りな努力がなされる。

人生が、オリンピックやワールドカップ以外のところに見つけられる、という自信が無ければ、大変なことになる。本当に大切なのは、私たちに全てを授けてくださる神を深く信頼していることが明らかになる生き方をすることだ。このことを知っている者には、人生の素晴らしい褒美が待っている。

プロゴルファーのウェンディ・ワードは、そのような神に対する信頼を表す良い例だ。

2000年のこと、マクドナルドLPGAチャンピオンシップで、彼女は、道徳上のジレンマに直面した。トーナメントの最終ホールで、不思議なことが起こった。彼女が打とうと構えた時、パターは少しもボールに触れていないのに、ボールが動いてしまったのだ。それを見た者は一人もいない。

しかしワードは、少しでもボールが動けば、触っていなくともカウントされると知っていた。

クリスチャンの彼女にとって、どうすべきかは明らかだった。彼女は審判員を呼び、状況を説明した。書面の規則通り、審判員は、ワード氏のトータルスコアに一打加えた。そして、彼女のトーナメント成績は、282に終わった。

あの一打が重要だったのだ。あの一打で彼女は、13万3千ドル(約1213万円)分を失ってしまった。

試合後、ワードはこう語っている。「メジャーな試合で優勝できなかったのは、残念でした。でも、神の御前に正しいことをしたと思いますし、それが、私にとって最も大切なことです。」これは、熱気に満ちた競争の真っただ中にあって、真の安心と名誉とは、神の絶えざる力に頼ってこそ手に入れることができると気付いた人の例だ。

ワードは、そのトーナメントで優勝するため、厳しい練習に耐えてきたが、そんな中でも、最も大切なことは、彼女のいのちの源である神を心の底から敬うことだと理解していた。Dave Branon

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