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David C. Egner

David C. Egner

デイブ・エグナー氏は、すでにRBCミニストリーズを退職しています。在職中、Discovery Seriesに数多く執筆し、RBC ミニストリーズのその他の冊子にもたびたび引用されました。エグナー氏は、妻シャーリーとグランド・ラピッツに住んでいます。

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今度祈るとき

今から祈る祈りは、あなたの人生を変えるでしょう。本冊子の4ページを見てください。「祈りについて言うならば、私は___________。」という文の空欄に何を書き入れるでしょうか。5~6ページに記されている3つの失望のうち、どれがあなたに影響を与えているでしょうか。

今こそ行動するときです。神の助けをあおいで決断し、行く手を阻むものを退けて、思いのままに祈り始めてください。失望しても、それに捕らわれて次に進めないということが起こらないようにしましょう。ピューリタンには、「祈れるようになるまで祈り続けるように。」という格言がありました。祈り続けてください。そうすれば、やがて新たな確信を得て祈れるようになります。

一方、最初からやり直さなければならない、という場合もあり得ます。この冊子を読んでいて、自分と神との間には、はたして個人的な関係があるのだろうか、と思った方があるかもしれません。また、自分は罪人である、と気づいた方があるかもしれません(ローマ3:23)。しかし、次のことを知っていただきたいのです。

  • 自分で自分を救うことはできない (エペソ2:8~9)
  • 罪なき神のひとり子イエスは完璧な一生を生きられたが、そのようなことは私たちにはできない(Iペテロ2:22)
  • イエスは、私たちが支払わなければならない罪の代価を、私たちに代わって十字架の上で支払うために死んでくださった(Iコリント15:3~4)
  • イエスがよみがえってくださったことによって、イエスのささげてくださった犠牲が神に受け入れられるものであることが証明された(黙示録1:4~6)
  • 私たちは、信仰によって、主イエスを救い主として受け入れる(ヨハネ3:16)

自分で自分の罪の代価を支払わなくてもよいように、神に祈ってください。あなたを助けてくださる神を信じましょう。これが、あなたの祈りの中でもっとも大切な祈りです。救いを求めて祈る祈りこそが、あなたが神にささげるすべての祈りの揺るぐことのない基盤です。

みことばに根ざして祈る

聖書は、私たちと同じような願いを持っていたり、同じような失望を経験したりした人々によって書かれたものです。彼らも、時にはうろたえました。何も答えてくださらない神に叫び求めることがどのようなことか、また、絶望的な状況に直面することがどのようなことか、さらに、自分でコントロールできない強い感情に襲われることがどのようなことなのかを知っていました。ですから、聖書に記されている人々は、私たちの大切なお手本です。なぜなら、彼らは、そのような状況を生き抜いて、喜びと自信を回復したからです。

失望や恐れを乗り越えていこうとするとき、聖書の筆者たちの考えをもとにして、自分が何を考え、何を祈るべきかを知ろうとするなら、新たな希望が湧いてきます。詩篇42篇は、このことを考えていくのに好都合な聖書個所です。詩篇の作者は、この個所で、飢え渇き、打ちひしがれた心をたずさえながら神に叫び求め、自分の感情を正直に言い表しました。その結果、忘れていた真理を再発見しました。

まず、詩篇42篇から聖句をいくつか引用しましょう。それから、みことばに根ざして祈るというのはどういうことかをともに見ていきましょう。

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。(詩篇42:1~2)

主よ。このみことばは、私の心がどれほど空虚であるかを示しています。私は、とても渇いていて疲れています。そして、生活に疲れています。私にはもう力がありません。あとどれくらい頑張れるかわかりません。主よ。あなたが助けてくださらないなら、私は何もできません。いつか、あなたの御前に立つ日が来ることは知っています。しかし、いまあなたの御声を聞きたいのです。何を私に求めておられるのですか。何をせよと私におっしゃるのですか。

私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。 」と私に言う間。(3節)

父なる神よ。あなたはどこにおられるのでしょう。なぜ私を助けてくださらないのですか。今まで何の疑いもなくあなたを信頼してきました。かつて私は、人々の前で、「主は、なんと忠実で信頼できるお方だろうか。」と話したことがあります。しかし、今、その話をした人たちに会うと、恥ずかしいと感じてしまいます。

私はあの事などを思い起こし、御前に私の心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。(4節)

主よ。以前はまったく違っていました。昔は、あなたの民と一緒に、あなたの祝福を楽しんでいました。私たちは、ともに笑い、ともに祈りました。しかし、今はとても孤独です。あのような楽しさは、もう二度と経験することはないように感じています。

わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。(5節)

そうです。主よ。頭では、よくわかっているのです。自分のつぶやきを聞いていると、心の奥底から、あなたをまだ信じていると言う声が聞こえてきます。あなたに見切りをつけることは正しくないとわかっています。詩篇の作者のように、あなたの知恵を信じています。定められたときが来れば、私を助けてくださると信じています。笑える日が、もう一度やって来るでしょう。あなたをほめたたえる日がいつか必ず訪れることはわかっています。主よ。私は、どれほどその日を待ち望んでいるでしょう。それを言葉で言い表すことはできません。

昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。(8節)

私は、あなたの慈しみをもう一度経験できる日が来ることを心から信じています。1日の終りに喜びの歌を、歌う日々が来ることを信じています。

私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。」(9節)

でも、父よ。あなたが助けてくださることはわかっていますが、まるで打ち寄せる波のように不安がやってくることがたびたびあります。あなたを信じていますし、あなたが私の岩、私の避けどころであることは知っています。しかし、それでもなお、私は忘れられているのではないかと感じます。孤独感に苛まれます。どうして、あなたの子どもである私が、あなたをほめたたえることよりも、嘆き悲しむことに時間を費やさなければならないのでしょうか。

わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。(11節)

そうです。主よ。何があっても私はあなたをほめたたえます。あなたは、私にとってただひとつの希望です。私は、あなたをほめたたえます。あなたが良きお方だからです。あなたを疑ったことをお赦しください。私は、あなたを待ち望みます。私は、あなたを待ち望みます。この喜びをもう一度心に満たしてくださるあなたを!

様々な状況のもとで祈るべき聖句

  • 危険に直面しているとき (詩篇91篇)
  • 気持ちが沈み込んでいるとき(詩篇34篇、139篇)
  • 心配しているとき(ピリピ4章)
  • 危機的状況に直面しているとき(詩篇121篇)
  • 失望を感じているとき(詩篇23、42篇;イザヤ40章)
  • 誘惑を感じているとき(詩篇1篇;Iコリント10章)
  • 孤独を感じているとき(詩篇27篇)
  • 勇気を必要としているとき(ヨシュア1章)
  • 赦しを必要としているとき(詩篇32、51篇)
  • 疑いが心の中にあるとき(ヘブル11章)
  • 神からの保証を必要としているとき(ローマ8章;Iヨハネ5章)
  • 感謝しているとき(詩篇136篇)
  • 喜びを感じているとき(詩篇100篇)

基本に戻るー言いたいことを一方的に言うのではなく、神と語り合う

確信を持って祈ることを妨げる理由はいろいろありますが、よくあるのは、神が自分の祈りを聞いてくださらないと感じることです。私たちは自分を、新聞のスポーツ欄を読んでいる夫に話しかけようとしている妻や、音楽を聴いているティーン・エイジャーの息子に話しかけようとしている父親のように感じることがあります。相手からは話を聴いているという意思表示はなく、まったく無反応です。

もし、祈りがこのようだったら、「祈りは、単なる儀礼だ。」と思うようになります。そうなると、神が私たちのことをとても気にかけてくださっているという真理、また、私たちの祈りの一言ひとことに真剣に耳を傾けてくださっているという真理を見失ってしまいます。祈りは、生きて働き、人を愛される神との霊の交わりであるべきです。

A・W・トーザーは、『神を追い求めて』という本の中で、「神は人格を持ったお方です。ですから、人と人との関係がそうであるように、神との関係を深めていけます。しかし私たちは、この事実を、ほとんどまったくと言っていいほど忘れてしまっています。」と書いています。神が私たちの祈りを聞いておられないと感じるときには、祈りに関するふたつの重要な側面に注意を向けなければなりません。

確信を持って神のおっしゃることに耳を傾ける。祈りは、神に向かって何かを一方的に言うことではありません。聖書を通して、神がすでに語られたことと、今も絶えず語っておられることに思慮深く応答することです。それゆえ、聖書は、神と絶えず語り合うために重要な役割を果たしています。

神と会話できるようになるためにはいくつかの方法が考えられますが、そのひとつは、 詩篇かパウロの手紙を読むことです。聖書を丹念に読んで、神が何を考えておられるのか、どのような感覚を持っておられるのか、また、どのような価値観をお持ちなのかを考えてみましょう。みことばに霊感を与えたお方が考えておられることを、慎重に、また、敬意を払いながら見極めてください。みこころが何なのかを知ることができるように、神に助けを求めてください。そして、あなたの心の中にあることと、みことばが示していることをつき合わせてください。そうすれば、神にとって大切なことは何かがはっきりわかるようになります。そして、神があなたの心の中でどのように働かれているのかもわかるようになります。

たとえば、コリント人への手紙第一の13章に書かれているみことばを読んで、祈るように促された夫がいたとしましょう。彼は、この個所から愛とは何かがわかり、それを自分と妻との関係に適用しようとしました。自分が、妻をいかにぞんざいに扱ってきたかがはっきりとわかったのは、「愛は寛容であり、…」(Iコリント13:4)という個所を読んだときでした。そして、このときを境に、夫の態度と行動に、妻が長らく待ち望んでいた変化が起こりました。

フランソワ・フェネロンは、次のように書いています。「黙って神がおっしゃることに耳を傾けるようにしましょう。神の御声を聴く心づもりができたら、聖霊は、どのようにすれば神を喜ばせることができるのか、教えてくださいます。もし、神の御声を本当に聴きたいと思うなら、物質中心のこの世の思いと人間的な思惑のすべてをいったん脇において、神の御前で沈黙することが、絶対必要です。」

それは、人の耳にはっきりと聞こえる声ではないでしょう。しかし、聖書に書かれている真理が、あなたが置かれている状況や心配ごとに対して、優しく、愛に満ちた力強い声で語りかけるので、あなたには、それが聖霊であることがわかるはずです。

ある晩、孫の病状がとても悪くなったとき、私は起きて祈りました。祈り心を持ち、主の前で沈黙していました。すると突然、妻に対して十分に配慮していなかった点に気づきました。私は、自分のどういう態度が、神のみことばやみこころに沿っていなかったのかがわかりました。何年もの間まったく見えていなかった妻の必要に、初めて目が行きました。私は、神に赦しと助けを求めて祈りました。そして、翌日から妻に対する態度を改めました。その結果、大きな変化が起こりました。黙って神の御前に立つなら、神は語りかけてくださいます。私は、そう確信しています。

確信を持って神に応答する。神のおっしゃることに耳を傾けると、みことばに裏打ちされた行動をするようになります。みことばが与えられることは、ほんの始まりに過ぎません。たとえば、コリント人への手紙第一の15章を読んでいると、復活という大きな勝利と、それに伴う希望のゆえに神をほめたたえるでしょう。しかし、それだけではありません。サタンは敗北したという強い確信が与えられると、重病に侵された人にも語るべき言葉が与えられます。心がかき乱されるような事態に直面しても、それを乗り越えていく勇気が湧いてきます。罪深い態度や習慣をやめる自制心も与えられます。

祈るときには、行動を起こす心構えができていなければなりません。祈りが、聖書に記されている真理に深く根ざしたものとなればなるほど、すなわち神の御旨にかなうものであればあるほど、より大胆な行動を起こすように導かれるでしょう。誰かの家を訪問して、その家族の重荷をともに担うことになるかもしれません。過去に人に傷つけられたり、逆に、人を傷つけたりしたことで、そのままになっている問題があれば、それを解決すべく行動するように促されるかもしれません。予定の大幅な変更もあるかもしれません。見知らぬ土地で、考えたこともないことや、自分にできるなどと思いもしなかったことをするように導かれるかもしれません。どうしてこのようなことが起こるのでしょう。それは、私たちが神に向かって祈っているからです。この神は、じっとしていて何もしない神ではありません。生きて働いておられ、他に比べるものがないほど強い力で私たちの人生に介入され、御旨に沿って生きようとする人を、思いがけないほど劇的に変えてしまわれます。また、劇的な変化は何も起こらず、そのままの状態に留め置かれる人もいるかもしれません。それはそれでよいのです。このお方こそ神だからです。

私たちは、自分の必要と願いを携えて神の御前にひれ伏すとき、自分自身がこの行動の主体だと考えます。しかし、あらゆる祈りは、神への応答だと言えるでしょう。これは、ノルウェーのO・ハレスビーが、その著書『祈り』の中で教えていることです。彼は、イエスがおっしゃった、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。」(黙示録3:20)という聖句を、祈りの扉を開く鍵だと考えています。イエスは、私たちの心の戸をどのようにノックされると思いますか。私たちは、いろいろな条件や環境のもとで様々な経験をしますが、それらの経験は、私たちを祈りへ駆り立ててくれる神のノックです。このように考えると、孫のための私の祈りは、実は、神への応答でした。イエスは、孫が健康を必要としていることを通して、私の人生の戸を叩いておられたのです。

基本に戻るー神の視点に自分を合わせる

あなたもこのような経験をしたことがあるでしょう。いつも混み合っている銀行に電話をかけて、残高照会をしようとしました。「少々お待ちください。」と愛想のよい受け答えの後、音楽が流れ始めました。少しするとその音楽が途切れて、「担当者におつなぎしています。もうしばらくお待ちください。」という録音が聞こえ、それから再び音楽が流れ始めました。ずっと待たされていると、果たしてこの電話は取り次がれているのだろうかとイライラしてきます。かなり経っても何の変化もないので、電話を切ろうかと思います。買い物に出たついでに、銀行に寄って通帳に記帳をした方がよっぽど早いと思うからです。

神が祈りに答えてくださらないので、現状維持を強いられているように思えることが時にはあります。神は、私たちのためにすばらしいことをしてくださっているのかもしれませんが、心の底から願っていることがかなえられません。神がともにおられることはわかっていますが、この願いには答えてくださらないのです。

旧約聖書に出てくるハンナは、神に拒絶されていると感じることがどのようなことかをよく知っていました(Iサムエル1:1~18)。ハンナは、エルカナの妻のひとりでした。もうひとりの妻であるペニンナには子どもがありましたが、ハンナは子どもを授かりませんでした。当時の社会では、これは、神がハンナのことを快く思っておられないしるしだと考えられていました。さらに悪いことに、いけにえをささげるために毎年主の宮に上って行くとき、ペニンナは、ハンナに子どもがないことをあざけりました。ハンナは、熱心で忠実な信仰を持った人でしたが、この不幸は何年も続きました。彼女は、祈って祈って祈り抜きました。しかし、神はハンナの祈りに答えてくださいません。ある年、主の宮に上ったとき、ハンナは激しく泣き、我を忘れて祈っていたので、祭司エリは彼女が酒に酔っていると勘違いして非難したほどです。しかし、これがハンナの話の終わりではありません。神の定められた時に、そしてそれは、まさに絶妙のタイミングでしたが、神はハンナに男の子をお授けになりました。彼女の生んだ子は、サムエルと名づけられ(Iサムエル1:19~20)、後に祭司になりました。彼は、イスラエルの歴史を変えた預言者になったのです。

神に拒絶されたというハンナの気持ちは、神が定められた時に喜びに変わりました。ハンナは言葉を尽くして神をほめたたえましたが、その中で彼女が心の底から求めていたことは、実は、子どもが与えられることではなく、神が自分を受け入れてくださり、自分を認めてくださっていることを知ることでした(Iサムエル2:1~10)。ハンナが感じていた苦々しさは、喜びに変わりました。ハンナの経験が、後のあらゆる時代に生きる人々に対して示していることは、「大切なのは、祈ったことに神がすぐに答えてくださるか否かではない。」ということです。大切なことは、私たちが神の知恵と神の時に謙遜に従っているかどうかです。

ハンナの経験と他の聖書個所に書かれていることとを総合的に見れば、なぜ自分の感情ではなく、神の知恵に従う必要があるのかがわかるようになります。

神の視点を信じる。私たちの物の見方は、針の穴から向こう側を覗いているようなものです。見ようとしているものの全体を見ることはできません。もし全体像が見えたなら、ほしいと思っているものが、自分にとっても愛する人たちにとっても、必ずしもよいものではないとわかるでしょう。祈ったからといって、そのすべてが与えられなかったことを、いままでに何度感謝したことでしょう。物事の全体を見渡すことができるのは天に引き上げられたときだ、と自覚して祈っていたら、私たちは、もっと豊かな人生を送れていたでしょう。そう自覚することによって、「私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」(Iコリント13:12)と言えるようになります。P・T・フォーサイスは、「私たちも、いつかは天国に行くときがきます。そのときになって初めて、かつて神が私たちの祈りに答えてくださらなかったことが、その祈りに対する最も真摯な答えであったことに気づき、それに感謝します。」と書いています。

神の知恵を信じる。神は、私たちが本当は何を必要としているかをご存知です。母子家庭の失業中の母親が、苦しい家計を何とかしようとして、「20万円を与えてください。」と祈ったとしましょう。神は、この祈りに答えてお金を与えてはくださいませんでした。お金ではなく、子どもを育てながら続けられる仕事をお与えになりました。そして、家計のやりくりが上手になるように手ほどきしてくれる友人もお与えになりました。あるとき、彼女は過去を振り返り、神が自分の祈りに答えてくださったことに気づきました。そしてその答えは、神の知恵を反映していました。この話で最も大切なポイントは、彼女が神を信頼するようになっていったことです。

神の時を信じる。家を売りに出しても、その家が実際に売れるまでには思った以上に時間がかかります。また、赤ちゃんは、予定日よりも早く生まれたりするものです。しかし、神は、いつでも最良のタイミングでみこころを行われます。私たちの人生で起こるすべてのことを、オーケストラの指揮者のようにリードしておられます。

神が良き方だと信じる。妻(あるいは夫)が自分をもっと大切にしてくれるように、長い間祈ってきた人がいるかもしれません。しかし、連れ合いの悪口を言うことをやめるように導かれるまでは、このようなことは起こりません。

祈っても答えが得られないことがあるかもしれません。どうしてかと言えば、人を赦そうとしていないか、何かに執着していて、自分を見失っているか、怒りで心が騒いでいるので、私たちのうちにある聖なる部分が堕落しているからです。自分の快楽のために使おうとして「悪い動機」で願っている場合もあるでしょう(ヤコブ4:3)。自分で自分を吟味し、罪を告白し、そして悔い改めて、はじめてあなたの祈りは答えらます。

オズワルド・チェンバースは、祈りの答えを待つことは祈りの一部である、と理解していました。「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」という聖句(ルカ18:1)について、こう書いています。「イエスは弟子たちに忍耐して祈ることをお教えになりました。もし、神の前に正しく生きているのに、祈りの答えが遅れている、という状況にあったとしても誤解してはいけません。神のことを、不親切な友だちだとか、冷淡な父親だとか、あるいは、不公平な裁判官だなどと考えてはいけません。答えられるまで祈り続けなさい。天の父なる神が、いつの日にかすべてのことを説明してくださいます。でも、今はちがいます。どうしてかと言うと、あなたの人格や品性を高めようとしておられるからです。あなたは、『そんなことには関心がない。神にしていただきたいことは、私の願いをかなえてくださることだけだ。』と言うかもしれません。しかし神は、『私があなたのためにしようとしていることは、あなたの知識と理解をはるかに超えている。』とおっしゃるでしょう。」

ダビデの歌うたいであったアサフは、神が人よりもはるかに大きな視野をお持ちであることを知って、幻滅を乗り越えることを学びました。詩篇73篇で、アサフはこう言っています。

まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、ほかの人のようには打たれない。…確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。私は一日中打たれどおしで、朝ごとに責められた。もしも私が、「このままを述べよう。」と言ったなら、確かに私は、あなたの子らの世代の者を裏切ったことだろう。私は、これを知ろうと思い巡らしたが、それは、私の目には、苦役であった。私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った。まことに、あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます。まことに、彼らは、またたくまに滅ぼされ、突然の恐怖で滅ぼし尽くされましょう。目ざめの夢のように、主よ、あなたは、奮い立つとき、彼らの姿をさげすまれましょう。私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。(詩篇73:1~5、13~26)

基本に戻るー神との交わりを楽しみながら答えを待つ

アサフは、「神を信頼する」とは、単なる服従以上のことを意味すると語っています。 確信を持って祈るもうひとつの秘訣は、神との交わりを楽しみながら祈りの答えを待つことです。どんな願いでも、神を知るという特権の上をいくものはありません。神以上に大切なものは、何もありません。

たしかに、抱えている問題があまりに大きくて、圧倒されている場合もあるでしょう。 また、失望したり嘆き悲しんだりして、心が沈んでいるかもしれません。ハンナのように、かなえられない願いが心を占領していて、冷静になれないときもあるでしょう。 しかし、神の恵みに触れて喜びにあふれ、心から笑えることもたくさんあるはずです。

神に関してすでに知っていることが正しいと信じる。「神を待ち望む」ということを学んでいけば、神というお方は自分がすでに知っている側面だけでも、何とすばらしいのだろうと、改めてワクワクしてきます。「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。」という、詩篇の筆者の招きは、自分に対して語られていることがわかります(詩篇100:4)。

主に感謝する。神は、私たちのために多くのことをしてくださいました。もし、あなたの上司がその十分の一でもしてくれたら、言葉を尽くして感謝の気持ちを伝えるでしょう。神にも言葉を惜しまず感謝してください。

私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。(詩篇30:12)

イエスは、父なる神に感謝をささげました(ルカ10:21)。パウロの祈りは、感謝で満ちています(たとえば、 エペソ5:20)。私たちも、主に対して喜びをもって感謝をささげるべきです。

神をほめたたえる。神を神としてほめたたえ、私たちのためにしてくださったことに感謝しましょう。聖書は、主をほめたたえる言葉で満ち溢れています。

ハレルヤ。主のしもべたちよ。ほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。今よりとこしえまで、主の御名はほめられよ。日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。(詩篇113:1~3)

主への賛美が記されている聖書個所としては、この他に、 詩篇146篇1~2節、ヘブル人への手紙13章15節、黙示録4章11節などがあります。祈りの中で神を賛美しましょう。神をほめたたえるとき、神を崇め、賛美しましょう。「主はあなたの賛美」(申命記10:21)です。

神の約束を信じる。との交わりを楽しむもうひとつの方法は、祈りについて神が約束してくださったことを喜ぶことです。パウロは、ピリピ人への手紙で祈りについて書いていますが、そこで3つの約束を列挙しています。

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6~7)

神が与えてくださる平安に関する約束。安を感じたとき、その不安の解毒剤は祈りです。自分ひとりで背負っている重荷を神に引き渡せば、神は、「あなたに平安を与える。」と約束しておられます。多くのクリスチャンが証していることですが、夜中に目が覚め、不安で心が押しつぶされそうだと感じるとき、あなたの重荷を主の御前に差し出すなら、平安が与えられて再び眠れます(詩篇4:8)。ですから、不安や重圧、そして気がかりなことを主にゆだねたなら、主は私たちに平安を与えてくださることを喜びましょう。

神の守りに関する約束。たちが祈るとき、神は私たちの心を守ってくださいます。主が、敵の攻撃から守ってくださるので、主のもとへいつでも避難していけます(詩篇31:1~3)。ですから、このお方がともにいてくださることを喜びましょう。

神が私とともにおられるという約束。パウロは、神の臨在についてこのように記しています。「平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」(ピリピ4:9)人生の嵐が吹きすさぶ谷間をひとり歩くとき、私たちは孤独を最も強く感じます。しかし、そのような中でも祈るなら、神がともにいてくださることを思い出します。どこにいようとも、神の約束が私たちとともにあることを喜びましょう。

祈れないとき

祈りについて聖書から学ぼうと集まった独身の人たちに、私は一枚の用紙を配りました。その一番上には、こう書かれていました。「祈りについて言うならば、 私は__________ 。」私は出席者全員に、適当と思われる言葉をその空欄に書き込んでください、と言いました。

あなたなら何を書きますか。話を進める前に、あなたもこの空欄を埋めてください。そうすれば、いくつかのことに気づかれるでしょう。

「祈りについて言うならば、私は_______。」

そこにいた人たちが書いたことをまとめると、以下の3つのカテゴリーに大別できます。

  • 「祈りが足りない。」
  • 「何を祈ればよいのかわからない。」
  • 「祈って何か良いことがあるのかどうかわからない。」

これは、よくある答えです。祈っているとき神と自由に会話できる、という人もいます。しかし、祈りは、たいていの人にとって、勝つこともたまにはあるが往々にして負けることの多い戦いだ、と受け止められているようです。祈りは簡単だ、となかなか言えないのが普通です。祈りは、自分の気持ちを神にぶつけることではありません。それは、どんなに小さくて弱くても、その人の信仰の表れです。また、霊的な戦いに勝利するための武器でもあります。祈りは、神とどのように関わっているかを反映していますが、神との関係は、私たちが無知だったり不注意だったり、また鈍感だったりすることがあるので、良好とは言えないこともしばしばあります。祈りは、神を信頼していることの証であるはずですが、信頼が失望にかわることもめずらしくありません。

クリスチャンになりたての頃は、大きな期待に胸をふくらませて祈ります。本当に欲しいものがあるならそれが与えられるし、孤独から解放され幸福感に浸れると信じています。また、神を信頼してさえいれば、どんな問題でも乗り越えていけると信じています。

ところが、大切なことを祈ったのに答えられなかったという体験をします。病気の友だちに、「早くよくなるように祈っているよ。」と言って安心させようとしますが、回復の兆しはありません。家族の前で、自分たちが抱えている問題が解決するように祈りますが、その祈りは無視されているかのように、何ヶ月たっても事態は好転しません。信仰を離れてしまった家族や友人が戻ってくるように心を込めて祈りますが、そのようなことはいっこうに起こりません。

このようなことを経験すると、失望感が少しずつ心の中に広がっていきます。祈りに対する熱が冷めていき、食前に祈るだけになっていきます。そして、二度と拒絶されたくないので本当に気がかりなことを主の御前になど携えて行かない、という段階を通り、ついにはまったく祈らなくなってしまいます。

あなたの祈りはいかがですか。祈りの成長が、あるレベルで足踏みしているなら、それは心の底から祈ることに失望したからではありませんか。

  • 神に失望している。「神が娘の病気を治してくださる、と信じて祈りました。しかし、結局、ガンとの闘いに敗れて、娘は死にました。私は悲しくてたまりません。この現実をどう受け止めてよいのかわかりません。」
  • 他の人に失望している。「私の人生をめちゃくちゃにした人たちに強い怒りを感じているので、祈れません。」
  • 自分自身に失望している。「祈りたいとずっと思ってきました。今日こそは、といつも思っているのです。しかし、それができずに今日まで来ました。」

一旦こじれた人間関係を修復するには、信仰と勇気が必要です。神との関係についても、同じことが言えるでしょう。最初のステップは、問題があることを認めることです。そして、失望を乗り越え、神を信頼する心を取り戻さなくてはなりません。私は、読者の方々がそういう信仰を持てるようにお役に立ちたいと願ってこの冊子を書きました。

しかし、本題に入る前に、少し個人的なことを書かせてください。私は、失望するとはどういうことか、ほんの少しですが知っています。色々なことがありましたが、孫のネイサンのことでは、心がかき乱される体験をしました。可愛い孫のネイサンは、免疫機能不全という障害を背負って生まれてきました。彼の小さな体には、病気と闘う力がありません。生後1~2年の間、何度も気管支炎に冒されました。私たち家族は、苦しんでいるネイサンを無力感に苛まれながら見守ること以外、何もできませんでした。神は、私たちの祈りを聞いておられないかのようで、ネイサンは幾度となく入院しました。そのたびに、家族全員が恐怖に襲われました。これほど大切なネイサンのために祈っているのに、神がその祈りに答えてくださらないなら、どうして神を信じられるでしょうか。

担当医は、このような子どもの60パーセントは3歳前後で免疫機能が働き出す、と言いました。これは、いくばくかの希望を与えてくれましたが、残りの40パーセントの子どもは感染症に対する免疫機能がないまま成長する、という事実が突きつけられた、ということにもなります。私は、自分で自分を守る力を持っていない孫を見て、幾度となく祈りました。

最初の頃は、「もし~だったらどうしよう。」と考えるばかりで、疲れ果てていました。ところが、時が経つにつれて、祈りの内容が変化していきました。心配で心が張り裂けんばかりだ、という気持ちは徐々に薄れ、祈るときの言葉数も減っていきました。 ただ、絶えず彼のために心の中で闘っていました。最後には、こんなシンプルな祈りをするようになりました。「主よ。最善をなしてください。ネイサンにとって何が最善かは、あなただけがご存知です。あなたを信じます。あなたが良きお方であることを信じます。あなたがネイサンを癒してくださるように心から願っています。でも、みこころのとおりにしてください。」ネイサンが3歳になった頃、感染症に冒される回数が減ってきました。そして、検査の結果、神はネイサンをあわれんでくださり、免疫が働く60パーセントの子どもの中に入れてくださったことがわかりました。

私は、自分ではまったくコントロールのできない状況を通り抜けながら、「祈りの学校」で、神を信頼することを学びました。祈りが答えられた喜びと感謝を体験しました。かなわなかった祈りには、神の知恵が働いていたことも知りました。また、神との交わりを楽しみながら祈りの答えを待つことも学びました。

知らない間に失望していることが、今でもあります。ふと天候をコントロールしたエリヤのような祈りの力(ヤコブ5:16~18)がほしいと思ったりします。しかし、いろいろな経験を通して学んだことは、確信を持って祈るとは神に自分の願いを一方的にしゃべることではない、ということです。いくつかの単純ですが大切な原則を学んだので、今では、確信を持って祈れます。この原則は、雄弁さや霊的洞察力といった能力が高いか低いかにかかわらず、「主がお建てになった祈りの学校」で誰もが順序だてて学べるものです。これから、祈りの基本に戻って、5つの原則を順番に見ていくことにしましょう。

基本に戻るー仲介者を通して神に近づく

イエスが神と人の仲立ちをするというアイデアは、神から出たものです。神は、人が神をなかなか信頼しないということをご存知でしたが、人を無視しようとはお思いになりませんでした。それで、仲介者を立てることにされました。神と人との橋渡しをするために、神のひとり子イエスが私たちのもとに送られたのです。イエスは、人が置かれている状況を理解し同情してくださるお方でしたが、同時に、天の御国を代表するお方でもありました。

イエスは、人となられてこの地上で暮らし、私たちの抱えている問題に深く関わられたので、ついには、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコ15:34)と叫ぶまでになりました。しかし、その3日後には、死に勝利を収められたことが明らかになります。私たちのために来てくださった仲介者イエスは、大きな犠牲を払って、神と人とを隔てていた障壁を取り除いてくださいました。

それでもなお、私たちは罪を犯すでしょう。欲望に目がくらんだり、頑固に意地を張ったりすることもあるかもしれません。後悔の念にかられることも、神のみこころがわからなくなって途方に暮れることもあるでしょう。しかし、神の愛を疑うことはもうできません。父なる神は、無関心・無感動で、私たちを放ったらかしにしていると、誰かがまことしやかに語ったとしても、それに同意することはないはずです。神は、私たちと語り合いたいと切に願っておられます。その願いは、私たちが神と語り合いたいという願いよりもはるかに強いものです。ですから、私たちは安心して、「神よ、…」と祈り始めることができます。

イエスの仲立ちがないなら、神が私たちの祈りに耳を傾けてくださるかどうか、確信は持てません。置かれている状況から「神は私のことなど気にかけてくださらない。」と判断するかもしれません。しかし、仲介者イエスが十字架の上でなしてくださったことを思い出せば、安心して神に近づき、祈れます。「私は罪人です。」と恥じ入りながら神の御前に出ていくのではありません。「私は、◯◯です。」と、自分の名前を書いたプラカードを誇らしげに掲げて御前に進み出るのでもありません。ふさわしい言葉を厳選して祈ることができるので大丈夫だ、ということでもありません。ご自分の血潮で私たちの罪の報いをひとつ残らず引き受けてくださったイエス・キリストが仲立ちしてくださるので、このお方の御名で、私たちは神の御前に進み出るのです。

すでにささげられたいけにえを信じる。このように祈れるのは、神のご計画によるものです。仲介者イエスがこの地上においでになるはるか以前から、イスラエルの民は幕屋や神殿で礼拝をささげていました。何世紀にもわたって、神がはっきりと示しておられたことは、人は血によるいけにえをささげることを通してのみ神に近づけるという事実です。ところが、キリストが地上に来られて苦しまれたのを見て、人は、やっと理解しました。過去の血によるいけにえは、神のひとり子イエスの過酷な苦しみと死を暗示していたのです。

幕屋の中には香をたく壇がありましたが、それはまさに神の臨在を象徴する場所でした。そこで香がたかれるのですが、その芳しい煙が立ちのぼる様子は、神を喜ばせる祈りを象徴しています。重要な点は、香を燃やす火がいけにえの祭壇の炭火だという事実です(出エジプト30:7~10)。神の目から見て、いけにえと祈りは、明らかに関連しています。そして、私たちは、この両者によって神の御前へ進み出ます。

このようないけにえと祈りの関係は、仲介者であるイエスが、私たちのために備えてくださったものです。イエスは、神がよしとされたいけにえとなってくださいました。そして、私たちがイエスの御名によって神の御前に進み出ることを促してくださいました。このような確信に基づいて、ヘブル人への手紙の著者は、次のように記しています。

さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:14~16)

この聖書個所に記されているように、神の御前に近づくのは国王の謁見の間に入っていくようなものです。昔、ヨーロッパやアジアの王国では、王座の置かれた謁見の間はこの上なく華やかに飾られ、数多くの従者が控えていました。普通の人は、そのような部屋に入ったら、劣等感と威圧感で圧倒されます。祈りの中で神に近づこうとすると、これと同じ気持ちになります。しかし、キリストが理解してくださり仲立ちとなってくださるので、私たちは、「招かれざる客」になることを恐れたりせず、安心していつでも神の御前に進み出ることができます。私たちは、王家の紋章が押印された招待状を持っています。そこには、いつでも、どこでも、どんな問題であろうと、どんな必要であろうと、まず祈りなさい、と書かれています。これが「恵みの御座」です。恵みとは、受ける資格のない者に向けられる神のやさしい心遣いです。見返りなしに与えてくださる神の助けです。これこそが、仲介者イエスが私たちのために確保してくださったものです。

今も私たちを弁護してくださるイエスを信じる。イエスの働きは、今も続いています。 私たちは、仲介者イエスを信じているので、「恵みの御座」に進み出ます。イエスは、今でも神の右に座しておられ、私たちのためにとりなしていてくださいます(ローマ8:34)。私たちのための犠牲となってくださったイエスは、私たちのとりなし手になられました。主は父なる神とともに王座にいて、私たちのためにとりなしておられます。使徒ヨハネは、次のように言っています。

「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。」(Iヨハネ2:1~2)

なぜ、躊躇するのでしょう。イエスは、ご自身が犠牲になられただけでなく今も私たちのために父なる神にとりなしてくださっています。それなのになぜ祈ることを躊躇したり、自分にはその資格がないと言ったりできるのでしょうか。

基本に戻るー自分に正直になる

神は、自分の気持ちを正直に話す人を好まれます。現実を直視することは、神ご自身のご性質の中心です。そして神は、暗やみや欺きを嫌われます。暗やみは、サタンの領域だからです。ですから、確信を持って祈るためには、自分の気持ちに正直にならなくてはなりません。神は、私たちが文句を言ったり愚かなことをしてもビクともされません。私たちが恐れを感じたり、失敗したりしたとしても動じる方ではありません。私たちが怒ったり混乱したり、あるいは幼稚な願いごとをしても、驚かれたり、圧倒されたりすることはありません。

神を喜ばせないことが何かと言えば、安っぽいおせじや、表面的で心のこもらない賛美、そして、祈り手の心の中で実際に起こっていることにはまったく触れず、同じ言葉を繰り返すだけの不誠実な祈りです。私たちは、うそがばれないように取り繕うことや、手の込んだ小細工、そして、長々と形式的な言葉を連ねて祈ることをやめなければなりません。

みごとな口調で語られても内実のない祈りは、祈る人の本音を反映していないばかりでなく、神に拒絶される祈りです。恵みの御座に近づき確信を持って祈るために、まず本音で祈ることを学ばなければならないのは、そういう理由があるからです。最初に、自分で自分を吟味して罪を告白する時を持たなければなりません。そして、神ご自身について本当はどう思っているのか、また、自分の自己イメージや生活の必要、さらに、満たされない思いや願い、そして過去の不快なできごとなどについて何をどう感じているのかを神に正直に打ち明けなければなりません。また、神のみこころを実行したいと願っていることも率直に話さなければなりません。もし、そう願っていないなら、それもはっきりと認めなければなりません。そうすれば、神ご自身に助けを求めて、神への反逆と自分の愚かさを乗り越えられます。

自分自身を知るために神が力を貸してくださることを信じる。人の心の中をすっかりご存知の主は、本当の自分の姿を知りたいと思う人には、それを教えてくださいます。詩篇の作者は、「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。」と記しています(詩篇139:1)。ダビデは、ソロモンに向かって、「主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られる」と言いました(I歴代誌28:9)。

自分自身を吟味する祈りと、みことばとが組み合わされると、自分の心の中で何が起こっているのかがわかります。聖書は、心の奥底にある感情を引き出してくれます。また、本当の動機は何なのかを示してくれます。誰にも言ったことがない恨みや憎しみ、心の奥底に封じ込めた怒りの一つひとつを思い出させてくれます。正直に祈ることを通して、これらのものが心の中にあることを知り、それらが一体何なのかを知るなら、神に助けていただいて対処できます。

私は、確信をもってこう言えます。「私の心の中に何があるのか教えてください。」 と祈るなら、神はそれに答えてくださいます。たぶん、すぐにではないでしょうが、タイミングと方法を選んで少しずつ教えてくださいます。人は、自分に不都合なことは意識の中から抹殺したり、心の奥に押し込んでフタをしたりします。ところが、神はそのフタを開けて、その人に自分の本当の姿を見せてくださいます。そして、それをなさっている間、いろいろな配慮をしてその人が耐えられるように守ってくださいます。

  • 神は、私たちがほったらかしにしていた自分の心の古傷をまず思い出させ、それに立ち向かわせ、最後には癒して忘れさせてくださるでしょう。
  • 神は、果たしていない約束や、返していない負債があることを思い出させてくださるでしょう。
  • 神は、私たちがかつて誰かを傷つけたことがあるなら、その人に与えた心の痛みを自分のこととして感じるようにされ、過去を完全に清算するように命じられるでしょう。
  • 神は、誤解があるならそれを解いたり、人を赦したりするように命じられるでしょう。

今までわからなかったことが心の底からわかることは、神からのすばらしいプレゼントで、人を自由にしてくれます。そのプレゼントは、祈りの中で主に対して正直になることによって与えられます。

自分自身を正直に見つめると、神が与えてくださる祝福が何であるかがわかります。神は、私たちの心にいつも働きかけてくださり、私たちのためにいろいろなことをしてくださいます。親切にしてくださり、恵みで満たしてくださいます。試練に負けずに成長できるように援助してくださり、苦難を乗り越えられるように支えてくださいます。また、誘惑から逃れる道を備えてくださいます。そして、神ご自身の平安を与えてくださいます。しかし、生活の雑事に追われていたり、諸々の責任に心を奪われていたりすると、時には神が与えてくださるこれらの祝福を忘れてしまいます。

正直な人を赦される神を信じる。野球の試合で、9回の裏を同点で迎えたとしましょう。自分たちのチームが守っていて、ツーアウト満塁。バッターが三遊間に鋭いゴロを打つと、ショートを守っていた新人はボールをはじいてしまいました。3塁走者がホームベースに駆け込み、相手はサヨナラ勝ちです。味方のショートは、このようなゴロを過去に何千回も処理してきました。しかし、このときはエラーしました。

その選手は、いろいろな言い訳ができました。ボールが、小石にあたってバウンドが変わったのでキャッチできなかったとか、太陽が目に入ってまぶしかったとか、芝生が濡れていたからエラーしたんだ、とも言えたでしょう。しかし、彼は、ゲームの後で言いました。「ヘマしちゃったよ。負けたのはボクのせいさ。」

私たちは、神に対してもこのような態度を取る必要があります。主が私たちに罪があることをはっきりと示されたなら、それをしっかり受け止めて告白し、悔い改めた後は、神が私たちを赦してくださる、と信じなければなりません。

ダビデとナタンの話を覚えていますか。王位についたあと緊張感が途切れてしまったダビデは、将軍たちに戦争をさせて、自分は国に留まったままでした。ある日、彼は、水浴をしていたバテシェバを見て情欲に燃えました。そして彼女を王宮に連れ込んで姦淫し、その上、自らの罪を隠ぺいするために彼女の夫を殺させました。事件は首尾よく片付いたかのように見えました。しかし、ナタンがダビデに詰め寄って、「あなたがその男です。」(IIサムエル12:7)と、強く非難しました。

ダビデは、何日、おそらくは何カ月もの間、神から離れた暗闇の中で過したのち、ついに自分の罪を認めました。感動的なダビデの悔い改めの祈りは、詩篇51篇に記されています。ダビデは神にこう告白しました。「まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。」(詩篇51:3~4)ダビデは、主とともにある喜びを再び感じられるように祈りました。神はダビデを赦し、彼の祈りに答えてくださいました。現代社会に生きる私たちが、もし自分の罪を覆い隠そうとするなら、聖書と聖霊、そして神の民であるクリスチャンの友人たちがナタンの役割を果たし、私たちに警告するでしょう。

私たちが生きている世界は、心が頑(かたく)なで、善悪の区別がつかない人たちで満ちています。弁護士は、たとえ依頼人が有罪であるとわかっていても、誠実さを装い、法廷術を駆使して被告人を弁護します。そして被告人は、自分が犯した恐ろしい犯罪に対する判決を、ひとかけらの自責の念も感じずに聞くのです。私たちは、事実を否認すること、もっともらしい理屈で言い逃れること、そして責任を別の人や物になすりつけることの達人です。また、氷のように冷たい心で人に接することに慣れています。どうすれば、このような心を和らげることができるでしょうか。どのようにすれば、 主がいつでも受け入れてくださる、「砕かれた、悔いた心」(詩篇51:17)を持てるでしょう。神に祈り求めましょう。私たちは、こう祈らなければなりません。「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」(詩篇51:10)神はその祈りに答えてくださいます。私たちが、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」(ルカ18:13)と祈るなら、神は私たちに背を向けたりはなさいません。

神が私たちの感じている不満を取り扱ってくださると信じる。人間関係には、意見の違いや、もめごと、そして反目がつきものです。うまくいっていると思っていても、それは誰かが自分の気持ちを押し殺しているので、対立が先延ばしになっているという場合がほとんどです。夫婦や親友なら、相手に対する否定的な感情を率直に打ち明け、話し合って、それを乗り越えていこうとします。これと同じことが、神との関係にもあてはまるはずです。私たちには、祈りを通して、神を敬いながらもなお神と意見を異にし、神に疑問をぶつけ、神と議論さえする自由が与えられています。

ユダヤ教のラビであるジョセフ・テルシュキンは、本心を隠すことなく語り、神と真正面から対決することは、ユダヤ人が残した遺産であると書いています。『ユダヤ人とユダヤ教を知る』という本の中で、こう語っています。「人が神と議論をした最初の事例は、旧約聖書の特徴、また、ユダヤ教の一般的な特徴になりました。アブラハムの時代から何百年も経って、詩篇の筆者は、神に怒りをぶつけてこう叫んでいます。『起きてください。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。いつまでも拒まないでください。なぜ御顔をお隠しになるのですか。私たちの悩みとしいたげをお忘れになるのですか。』(詩篇44:23~24。この個所以外に、神のなさることに疑問を持った預言者や義人の例として、ハバクク1:2とヨブ記の全体を参照のこと。)全能の神に自分の意見をぶつけるという態度は、神も人間と同じように責任を果たすべき存在であり、その責任を果たしていないときには批判されるべきであるという信念から生じています。このような伝統のもとで生きてきたエリ・ヴィーゼルは、こう言っています。『ユダヤ人は、神を愛したり、神と争ったりします。しかし、神を無視することはありません。』」

アブラハムもこのような態度で生きていたと思われます。神は、ソドムという邪悪な町を滅ぼそうとされていました。アブラハムは神に向かって、50人の正しい人がその町の中にいることがわかったらその町を滅ぼさないでください、と言いました。50人の正しい人は見つかりませんでしたが、アブラハムは、根気よく神を説得して、その人数を10人にまで減らしました。しかし10人さえ見つけられなかったとき、ソドムは滅ぼされました(創世記18:23~19:29)。

モーセの場合もそうでした。主は、次々に奇跡を起こしてイスラエルの民をエジプトから導き出し、荒野では食べ物を与えてくださいました。しかし、モーセがシナイ山に登って神から十戒を受け取っているあいだに、イスラエルの民はエジプトの支配から自分たちを解放してくださったお方を捨てようとしていました。異教の人々のように金の子牛を作って自分たちのための偶像とし、豊穣を求める礼拝と称して性的放縦にふけりました。神は、モーセにおっしゃいました。「今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。」(出エジプト32:10)神は、もう一度最初からやり直して、モーセから大いなる国民を興そうとさえおっしゃいました。

モーセは、神に従いたくはありませんでした。彼は、イスラエルの民を救うために、 こう嘆願しました。「また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。」(12節)神はこのモーセの願いを聞き入れて、イスラエルの民にわざわいを下すことを思い直されました(14節)。

アブラハムとモーセは、よいお手本です。私たちも、彼らのように、神に向かって自分の思いを率直に語ってもよいのです。神を恐れ、神を敬いながら、なお次のようにすることが許されています。

  • 愛する人をなぜまだ救いに入れてくださらないのか、と神に文句を言う。
  • 神が子どもの命を助けてくださらず召してしまわれたので、どれほど失望し怒っているかを正直に話す。
  • 長い間失業しているのに仕事が見つからないイライラを神にぶつける。
  • 不妊の悲しみや苦しみを神に訴える。

神は、私たちが激しい否定的な感情を持っていたとしても、それに圧倒されるお方ではありません。このお方には、人からとやかく言われるような落ち度は全くないからです。神は、私たちに正直になるように勧めておられます。自分を正直に見つめれば、自分の思いや感情が本当はどうなのかがわかります。自分の本音がはっきりわかれば、それに対処できるように助けてください、と神に祈り求めることもできます。

なぜ、神の御前で正直になることをためらうのでしょう。私たちは、家族や友人に対しても、否定的な思いを口にすることをはばかります。おそらく、あらゆる種類の論争を避けようとするのでしょう。あるいは、神に文句を言うことは、信仰がないからだと考えているのかもしれません。

私たちは、仲良くすることと、反対意見を提示しあって話し合うこととは両立しない、という世間の常識にとらわれています。仲良く和を保っていることが、人間関係がうまくいっていることだ、と考えます。しかし、その人を本当に気遣っているなら、お互いの間に波風が立つのを避けられないこともあります。関係が悪くなったりいざこざが起きたりする危険を承知で、面と向かって本音で話す勇気を持つなら、それはあらゆる種類の人間関係を強め、また深めていきます。これと同じことが神との関係においても言えます。ベテルで神と取っ組み合いをしたヤコブのように、私たちも時には神と取っ組み合いをすべきです。そうすることによって、神からの祝福にあずかることができます(創世記32:24~32)。

神が私たちのために望んでおられることを信じる。イエス・キリストを信じる人の生きる目的は、神とひとつになることのはずです。そのためには、神の御前で祈るとき、自分に正直にならなければなりません。自分が望んでいることが神の望んでおられることと一致しているのか、そして、神のみこころならどんなことでもしようという意志が自分にあるのか、さらに、神が、「こうしてほしい」と言われたら、それをかなえようとするのか、などについて自分の心を深く探らなければなりません。

どうすれば、神と「ひとつ」になれるのでしょう。言うまでもないことですが、私たちはすべてのことを神と同じように完全に理解することはできません。イエスは、弟子たちに向かって、「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」(マタイ6:10)と父なる神に祈りなさいと教えられました。私たちも、自分の生活の必要や家族や友人のために祈るとき、さらに、病気の回復や職探しや何らかの指針を求めて祈るとき、イエスのこの教えに従うなら、きっと神とひとつになれるでしょう。

イエスご自身も、死の数時間前、この教えどおりに行動されました。ゲツセマネの園で苦しみもだえて祈られ、いったんは十字架にかかることを避けたいと父なる神に祈られましたが、最後にこうお祈りになりました。「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)イエスは、十字架を目前にして、現実から目をそらさず、自分の正直な気持ちと懸命に闘われました。そして、父なる神にご自分を明け渡されました。ですから、父なる神とひとつになって、この試練を乗り越えて行かれたのです。

「みこころのとおりにしてください。」と祈ることに疑問を感じるかもしれません。 こう祈るなら、それまで「~してください。」と祈り求めていたことを、密かにあきらめたことにはならないでしょうか。また、「~してください。」という祈りが、神がかなえてくださるべき正しい祈りだ、と実は最初から思っていなかったということにならないでしょうか。それとも、私たちの取るに足らない願いごとで神の邪魔をしないようにしようと謙遜さを装ってはいますが、実は、祈りが答えられないときは、「結構ですよ。どうせ大したことではありませんから。」と言えるように体裁を取り繕っているだけではないでしょうか。もし、このような気持ちで祈っているとしたら、まったくのお門違いです。

神学者のヘルムート・ティーリケは、こう書いています。「『みこころのとおりにしてください。』という言葉が意味していることは、このようなことではありません。それは、『私の祈りがどのような意味を持っているのかを、あなたは私よりもよくご存知です。』という意味です(ローマ8:26)。『私が、空腹のままでいることを望んでいるのか、あるいは何かを食べたいと思っているのか、あなたは私の願いをよくご存知です。あなたが与えてくださるものが何であっても、私は、「主よ。そのとおりです。」(マタイ15:27)と言うでしょう。どうしてかと言えば、あらゆることで、あなたは、私に満足感を与えてくださるからです。そしてそれは、私の理解と願いを超えています。』」

私たちは、「みこころのとおりにしてください。」と祈るとき、神とひとつであることを選び取っています。イエスが弟子たちに向かって、「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」とおっしゃいました。私たちも神に向かってそう祈っています(ヨハネ4:34)。主が、ゲツセマネの園で祈られた祈りを、私たちも祈っているのです。私たちにとって何が最善かと言えば、神が、食べ物や仕事、そして伴侶や子どもを与えてくださるか否かとは関係なしに、神のみこころがなることです。

しかし、もし私たちが自分の考えや感情に正直にならないなら、神と一体であるという確信は得られません。正直さは、失望を乗り越え、確信を持って祈るようになるために必要なものです。

心配ごととは何か

心配ごとにどう対処すべきか、その答えを知るために聖書を調べてみましょう。しかしその前に、「心配」ということについて、まず基本的なことがらを押さえておくのが良いでしょう。

心配ごととは何か。何かを心配するというのは、懸念、不安、あるいは恐れを感じることです。このような気持ちは、何か悪いことが起こるかもしれないという予感と関連しています。たとえば、「帰宅した夫が、不機嫌だったらどうしよう。」とか、「あの大学に行っても、娘の将来は大丈夫か。」とか、「この家を購入しても、住宅ローンを払っていけるのか。」、あるいは、「地震が来ても生き残れるだろうか。」などと思うことです。

心配性の人たちは、今このときに生きているのではなくて、まだ来ていない将来に生きています。これから起こるかもしれないあれこれを長々と考えては、最悪の事態を想像し、恐怖を感じています。

「心配」を意味する言葉として、新約聖書の中で主に用いられているギリシャ語の単語は、「メリムナオ」です。これは、「不安であること」、「悩んでいること」、あるいは「集中できないこと」などの意味です。イエスは、「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで何を着ようかと心配したりしてはいけません。」と言われましたが(マタイ6:25)、ここで使われている言葉が「メリムナオ」です。また、パウロが、「何も思い煩わないで、…」と言ったときに用いた言葉もこれです(ピリピ4:6)。心配性の人は、心配ごとで頭が一杯になっているか、心配ごとに気をとられていて集中できません。何をしていても、心のどこかで心配しています。

どのような人が心配するのか。だれでも心配します。心配と無縁な人は、ひとりもいません。この世に何の心配もないと言う人は、自分のまわりで起こっていることに目をつぶっているだけです。責任感のある人なら、その責任を果たせるかどうかが気になるはずです。だからこそ、人はいろいろなことを成し遂げるのです。世界中で最もすぐれた指導者と言われる人たちの中にも、心配性の人がいました。アレキサンダー大王、ジョージ・ワシントン、そしてウィンストン・チャーチルなどがそうです。

興味深いことですが、すぐれた業績を残しした多くの人たちは心配性でした。失敗してはダメだという思いが、彼らを駆り立て懸命にさせます。一方、一見のんきそうな人たちもやはり心配します。心配ごとを顔に出さないだけです。そうです。心配しない人など、この世にはいないのです。

何が心配なのか。「心配ごととは、将来起こるかもしれないことを、いま起こっていることに重ね合わせることだ。」と言う人がいます。心配とは、将来起こるかもしれないことが、何か悪い結果をもたらすかもしれない、という懸念に心を奪われることです。心配する原因を分類すると、 以下の3つのカテゴリーになります。

1. 恐れ 犯罪の恐ろしさを実感するために、ニューヨークやロサンゼルスのような大都市に住む必要はありません。人気(ひとけ)のない暗い夜道をひとりで歩いて帰宅するなら、「ひったくりに襲われたらどうしよう。」と心配しなければなりません。安心してほっとするのは、無事に家に着き、玄関の鍵を内側からかけたときでしょう。心配の原因として挙げられる第一番目は、自分の身が危険にさらされることです。

2. 選択 多くの人は、決断しなければならないとき、不安になり心配します。そして、間違った選択をしないように最善を尽くします。この行動パターンは、選択肢がふたつ与えられていて、その両方ともが同じように良いときにも起こります。たとえば、山田健一さんが、ふたつの学校の教員採用試験に合格し内定をもらったとしましょう。一方の学校は、福利厚生の条件が良いのに対して、他方は、より教えがいのある教科を担当できるうえ、野球部の監督にもなってほしいと言われました。山田さんは、誤った選択をして後悔してはいけないと考えて心配になりました。

3. 過去の体験 心配の原因として考えられる第三番目のものは、「過去の体験」です。若い人の中には、父親との関係や、教師に対する悪い思い出などが原因で、権威を行使する立場に立っている男性とうまくいかない人がいます。そのような人は、上司と話し合わなければならないとき、いつも心配になります。目上の者によって、また恥をかかされるのではないかという恐れに打ち負かされそうになるからです。

心配になると、否定的な結末を思い描いて頭の中が一杯になります。恥をかいたり痛い目にあったりしないかと恐れます。大事な人や物を失いはしないか、あるいは、自分のしたいことが邪魔されるのではないかと不安になります。心配になったとき、次のふたつの行動のうちのいずれかを選択することができます。ひとつは、心配の原因である問題を避けることです。ただし、これをすると、ストレスは増えるだけです。もうひとつは、問題を直視し、適切な行動を起こして、そのあとはもうくよくよしないことです。

心配について聖書は何と言っているのか。 聖書は、2種類の心配について語っています。ひとつは、否定的な心配で、人に害をおよぼします。 もうひとつは、肯定的な心配で、人に益をもたらします。このふたつの違った意味を持った「心配」は、新約聖書では、「メリムナオ」という同一のギリシャ語で表現されています。

聖書に記されている否定的な心配とは、当惑していらだち、落ち着きのない状態のことです。イエスは、「山上の垂訓」の中で、この種の心配に関して6度も語っておられます(マタイ6章、本冊子46ページ参照)。イエスは、衣食住などの日常生活に関することで心を悩ませてはいけない、そして、将来起こるかもしれないことを心配してはいけないとお命じになりました。また、パウロは、「何も思い煩わない」(ピリピ4:6)ように命じています。一方、ペテロは、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。」(Ⅰペテロ5:7)と指示しています。本冊子で取り上げている「心配」あるいは「心配ごと」とは、上述のような否定的で人をダメにする種類を指します。

しかし、心配がすべて悪いとは限りません。聖書は、人に益をもたらすような心配についても書いています。たとえば、コリント人への手紙第二の11章28節には、「日々私に押しかかるすべての教会への心づかい」というパウロの言葉があります。この節で「心づかい」と訳されている言葉の原語は、先に紹介した「メリムナオ」というギリシャ語です。パウロは、コリントの信徒たちのことを心配していました。だからこそ、彼らに手紙を送ったのです。

パウロは、ピリピの信徒たちにも手紙を書き、テモテを彼らのもとに派遣したいという願いを明らかにしています。パウロが彼らのことを「心配(メリムナオ)」していたからです(ピリピ2:20)。ここで用いられている「心配」という言葉は、肯定的な意味を持っています。この心配によって、パウロやテモテは、自分のためにではなく、他の人たちのために愛に満ちた行いをしました。本冊子では、このような肯定的な種類の心配ごとを、「気にかける」という言葉を用いて表すことにします。

どのようなときに、心配し過ぎるのか。 気にかけてしかるべきことは色々ありますが、それが、気分を落ち込ませる重苦しい心配に変わるのは、以下のような場合です。

  • それが起こったら、と考え始めたら、止められなくて眠れない。

  • ゆっくりくつろぐことに罪責感を感じる。

  • いつも何かを怖れている。

  • ある特定の状況に置かれると、パニックになる。

  • あることに関して、自分がどのような感情を持っているのか考えたくない。

  • 他人のせいにする。

  • 災害に対する漠然とした恐怖感がいつもある。