一番心配なこと
自分は死にゆく者だと思うときほど我が身の無力さを感じるときはないでしょう。生命が燃え尽きるとき、死の向こう側には何があるのでしょう。聖書によれば、天国と地獄があるといいます。そして、地獄の存在は、確かに不安の種です。
「あなたは天国にいけると思いますか。」と尋ねたなら、ほとんどの人は、「そうあってほしいですね。」とか「自分はそれほど善人ではないかもしれない。」とか答えます。もしこの人たちが自分に正直に語るなら、地獄に落ちると考えただけで身震いする、と言うでしょう。しかし、私たちが天国を目指して歩んでいるかどうかを間違いなく知る道がある、と神は聖書を通して語っておられ、その理由も述べておられます。
第一に、私たちが天国に行く資格は、キリストによって与えられています。キリストは完全無欠な生涯を送られたのち、私たちの罪の代償を支払うために十字架にかかって死に、死からよみがえりました。こうして神は、キリストが私たちのために払った犠牲を受け入れた、と証明してくださいました。これは神の愛の奇跡です。私たちはこれ以上何をすることもできません。
第二に、天国への道は苦行や善行ではなく信仰です(エペソ2:8~9)。キリストの死をとおして赦しを差し出してくださった神の愛に応える行為は、主イエスを信じることです(使徒16:31)。救いは神の恩寵によって与えられる無償の賜物で、私たちの霊的渇望を満たしてくれます。
イエスを神と信じ、このお方は自分のために死んでくださったと認めるなら、間違いを犯したので天国にはもう行けない、と思い悩む必要はありません。私たちは、イエスがとりなしてくださるので、神に受け入れられています。神は、御子を無視するのでなければ私たちを無視することはできません。そして、そのようなことは決してなさいません。ですから、イエス・キリストを信じるなら、永遠をどこで過ごすのかという問題を心配する必要はまったくありません。
「ジョーニーの場合」
以下の話は、アメリカで放映されているRBCのテレビ番組「デイ・オブ・ディスカバリー」のために収録された、作家ジョーニー・ヨダーへのインタビューからの抜粋です。
私の心の中は心配ごとと不安だらけでしたが、自分ではそのことに気づいていませんでした。多くの人がするように、それを押し殺してきたからです。しかし、あることをきっかけにどん底に落ち、自分が感じている不安や恐怖感に向き合わざるを得なくなりました。キャサリン・マーシャルは、最大の発見とは自分の力だけではダメだと気づくことだと語りましたが、私はそれを体験しました。自分の内にたよれるものは何も残っていませんでした。肉体的にも精神的にも疲れ果てて、一歩たりとも前進できなくなりました。
私は、表の広い場所に出て行くことを極度に恐れる強迫神経症にかかりました。スーパー・マーケットへ行くことが、ひどく恐くなりました。スーパーにいると、自分ではどうすることもできないほどの強い恐怖感に圧倒され、冷や汗をびっしょりかく始末でした。私は、多くの人たちの前で発狂してしまうのではないか、さらには、死んでしまうのではないかと恐れました。買い物の途中、たまらなくなって、突然ショッピング・カートを店の隅に押しやると、夢中で家に逃げ帰ることもありました。そして、自宅に戻るとやっと安全だと感じました。
こんな状態は、誰にもわかってもらえないと思いました。食が細り、眠れなくなり、いつも怯えていました。私は、生活全般に関して不安を感じ、暮らしていく中で果たすべき責任は、それがどんなに小さいことでも恐れを感じていました。30代の前半にはもうくたくたで、何もできない状態でした。
振り返ってみると、 私の病気には3つの原因があったように思います。ひとつは、私は精神的に大変未熟で、責任をきっちり果たすことができませんでした。ふたつめは、卑屈になる傾向が強かったということです。しかし、自分ではこのことに気づいていませんでした。いつも自分の気持ちを正当化していたからです。最後に、これは多くの人に言えることですが、自分だけにたよるという行動パターンがありました。自分の力でどんなこともしようとしました。そして、そうできないことがあると、そんなことではいけない、と思ったのです。
こういうわけで、私はぼろぼろになっていきました。そして、自分の力にたよることはできなくなりました。しかし、これは私にとって必要なことでした。このように砕かれることは、すべての人に必要なことだと思います。砕かれると言っても、ノイローゼになったわけではありません。自分で何とかできるという人生観が砕かれたのです。
私自身や、私と同じように自分の力ではどうしようもない厳しい状況に置かれて、精神的に苦しんでいる人たちを観察した結果、ある共通する特徴が浮かび上がってきました。それは、その人たちが、自分と自分を取り巻く周囲の人や状況を、自分の思いどおりにコントロールすべきだと感じていることでした。その人たちは、(その事実を認めませんが)神さえもコントロールしなければならないと考えています。どうしてかと言えば、これから起こるかもしれないことを恐れているからです。物事をコントロールして、ある一定の方向に進んでいくようにすれば、自分の恐れを緩和できると思っているのです。
私の問題は、自分で自分を守ることができていない、もう少し言えば、私が恐れているものから自分を守ることができていないと感じていたことでした。そのため、私は自分の周りに「殻」を築き始めました。「殻」という言葉どおりの狭い空間、すなわち、自分が安全で守られていると感じる四方を壁に囲まれた自分の家の中で、私は、自分ひとりしか入れない小さな世界を作り、その中に住んでいたのです。
このような経験をしていたとき、私はすでにクリスチャンになっていました。神をはっきりと信じていましたが、私の生活の中には神が自由に働いていただく余地がありませんでした。私はとても不幸でした。「このためにこそ神が私を造ってくださった」、という私の人生の目的を見失っていました。
私は、どん底に落ちなければなりませんでした。キリストの力を知り、キリストによって変えられるためには、それまでの生き方に終止符を打つ必要がありました。神は私の人生に働きかけてくださり、ピリピ人への手紙1章6節でパウロが言っているように、私をいやしてくださいました。この聖書個所には、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる」(ピリピ1 : 6)と書かれていますが、この「良い働き」は、イエスを救い主として信じた瞬間から始まります。この過程は、6回とか6カ月とかの簡単な講習を受ければ終わるというものではありません。「キリスト・イエスの日が来るまで」続くプロセスです。
偏りのある生き方がバランスの取れた生き方へと変えられていきましたが、その過程のごく最初の方で、神は、私が自分で自分を訓練しなければならない4つのことを示してくださいました。それは、(1)聖書を読む、(2)神に祈る、(3)神を信頼する、そして(4)神に従う、ということでした。これらのことは、今でも私の人生にとても大きな影響を与え続けています。第一は、聖書を読むことです。ごちそうを食べるように神の真理を食べます。第二は、祈りです。おいしいごちそうを主といっしょに食べます。朝や夕に短い祈りのときを持つだけではなく、買い物をしているときや車を運転しているときなど、暮らしの中のひとコマひとコマで神と語り合います。第三は、信頼することです。自分の力ではどうにもできないことを抱え込むのではなく、あきらめるのでもなく、神が最善をなしてくださることを信じて、神にゆだねます。そして最後は、神に従うことです。神が望んでおられることは、私たちが自分でできることを自分勝手にするのではなく、神のみこころに従って実行することです。
これら4つは、すでに良く知られているものであり、目新しいことではありません。神を信頼することは、聖書に照らせば当たり前の真理ですが、自分自身の経験に照らせばあいまいな真理でした。神を信頼しているなら、頭で分かっていたり、他人に話したり、そうあるべきだと熱心に信じているだけではなく、実際、そのように行動しなくてはなりません。自分の力ではどうにもならず、無力感を感じるような状況は、私たちに祝福をもたらします。すでに信じていることを実行してみようと思うからです。
私は、これら4つのことを自分の日常生活に取り入れ、実行し始めました。すると、キリストとの親しい関係が強められ、このお方を本当に信頼する心が生まれました。 初めは、何でもない小さなできごとを通して、イエスがいてくださればそれで十分だ、ということがはっきりわかりました。 そして、キリストが私に代わっていろいろなことを成し遂げてくださるという経験を重ねるにつれて、キリストをますます信頼するようになりました。聖書を読み、祈り、主を信じて従っていくうちに、これらの4つのことがお互いに影響を与え合って働き出しました。私が自分のすべきことをするようになると、神はご自分にしかできないことをしてくださるようになりました。こうして、私の心から徐々に心配の種がなくなっていきました。神が成すべき仕事を私にお与えになったなら、たとえ私には荷が重すぎるように見えても、神が必ずそれを成し遂げてくださることがわかったからです。神は、殻を破って私を外の世界へ導き出してくださいました。近所の人たちで聖書を学ぶ会をリードするという機会を私に与えてくださり、自分だけの世界から引き出してくださいました。私は、その会に参加していた女性たちの心に効果的に働きかけることができたと思います。その理由は、彼女たちと同じぐらい、私もキリストを必要としているということが、みんなに伝わったからです。私は、その女性たちにプレッシャーを与える存在ではなく、彼女たちの信仰の成長を励ます存在でした。
その後、神は、私たち夫婦に海外で働く機会を与えてくださいました。ある日、ロンドンの地下鉄でひとりの薬物中毒者に出会い、彼を家に連れ帰って一緒に生活することになりました。この人や、その後に寝食を共にした人たちを通して、私はある真理に気づきました。私は、他の人たちがあまり苦労もせず当たり前のようにしていることをするために神の助けが必要だったのですが、実は、そのことを何となく申し訳ないと感じていました。ところが、薬物依存者たちとの関わりを通してわかったことは、彼らがその病気から立ち直ったり、私自身が立ち直ったりする上で必要なことは、自立することではない、ということでした。大切なことは、神にたよって生きるということです。
薬物中毒者たちとつき合うことによって、人は神にたよるように造られていることに気づきました。危機的な状況で有効な策は、その他のいかなるときにも有効です。私は、麻薬に依存している人に、大胆なショック療法を提供できる立場にあることに気づきました。彼らは、自分が依存しているものをすべて取り除くように、それまで教えられてきました。しかし、本当の答えは、薬物ではなく、神にたよることだったのです。さらには、自分ではなく神だけを、自分がたよるべき唯一のお方とすることです。私たち人間は、神だけにたよるように造られているからです。
今ここに、キリストが与えてくださる救いにあずかりたいと思う人々がいるとしましょう。そのような人々は、どのようにしてキリストに導かれたいと思うでしょう。弱いとはどういうことなのかを全く理解していないような、自分は強い人間だと思っている人たちの手で、キリストに導かれたいと思うでしょうか。それとも、弱さを克服して強く生きる秘訣を発見した人たちに、キリストへと導いてもらいたいでしょうか。
人々は、例外なく後者を選ぶと思います。神に仕えるためにいろいろなことをしているとか、自分が強い人間であるかのように見せることで、自分は立派なクリスチャンだ、と考える人がいるかもしれません。しかし、実はそうすることで、神が人々のために用意しておられた最後の望みを奪い取っているかもしれません。なぜなら、人々は私たちを見て、「あの人たちのしていることを見習うべきだ。」とは思いません。むしろ、「私は、とてもああいう風にはなれない。」と言うでしょう。しかし、もしそのような人々が、弱くても神から力を得て強く生きることを学び、今も依然として学び続けている人を目の当たりにするなら、その人たちの心は、希望で満たされ、こう言うでしょう。「ああ、すごい。あの人が強くなれたのなら、 私も強くなれるかもしれない。」
私は、自分のことを、ごく普通の人だと思っています。これは単に事実であるだけでなく、そうありたいという心からの願いでもあります。人は、一人ひとりユニークな存在として造られていますが、それを除けば、私はごく普通の人間です。キリストがおられなければ、まったく無益な人間です。実際、ある集会で、私のことをこのように紹介した人がいました。「皆様、ジョーニー・ヨダーさんを紹介させていただきます。キリストがおられなければ、まったく無益な人間だった方です。」そのように紹介されたら、ぎょっとした時期もあったでしょう。しかし神は、私を弱さの見本とされました。ですから私は、人の弱さに対して、また人の弱さを通して、神がなさることを、この世の中で生きている人々に話し、また証することができるのです。神が、私に対して、また私を通してそれをなしてくださったのなら、他の人たちにも同じことをなさらないはずがないではありませんか。
神を信頼して生きる、これが私の人生のテーマです。私の人生は、自分のうちには何もなかったが、神にたより切って生きることで必要なものをすべて得た女性の物語です。神にたよることは、みじめなことではありません。それは、神の意図された完全な計画です。被造物である人間は、創造主にたより切るとき、最高の状態に達します。私にとって、神にたよることは、かつては最後の最後になってすることでした。しかし今では、まず最初にしています。
霊的な成長が始まったころ、私はどん底の経験をしていました。つらいと感じていましたし、傍目にも明るい人だったとは言えません。しかし振り返ってみれば、このときが、私の生涯の中で最も霊的なときでした。今、同じところを通っている人たちにとって、私の告白が励ましとなれば感謝です。私たちは、他の人から「霊的な人だ。」と言われるためには、感情的に落ち込まず、常に成功者でなければならないと考えがちです。しかし、実際はそうではありません。霊的であるということは、自分には何もない、神がすべてだ、と悟ることです。
聖書に記されている心配性の人についての事例研究
イエスが、マリヤ、マルタ、ラザロの三兄弟が共に暮らす家を訪れたときのことがルカの福音書に記されています(ルカ10:38~42)。この聖書個所を読むと、イエスが、心配性のマルタをどのように導かれたかがわかります。私は、次のような場面を頭の中で思い浮かべることができます。
イエスとその弟子たちは旅をしていましたが、その途中でこの家庭に立ち寄りました。大切な客人の世話をするのは、簡単なことではありません。マルタが、台所で、 サラダを作るために野菜を切り、食器を出し、メイン・ディッシュを作り、さらにデザートの準備をするなどして忙しく働いている間、マリヤは何もせずにイエスのそばに座っていました。
マルタは、主イエスのために、すべてのことを完璧に仕上げたかったのですが、物事は思いどおりに進みません。マルタは、いらいらし、無力感を覚えました。ルカの福音書10章40節によれば、マルタは、「いろいろともてなしのために気が落ち着かず」、居間の方に目をやりました。マリヤが手伝ってくれることを期待していたのです。しかしマリヤは、イエスの話に夢中で聴き入っていて、腰を上げる気配はありません。
ついに、マルタは我慢できなくなって居間に行き、腰に手をあてて、強い口調でこう言いました。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」(40節)
あなたもマルタのような人かもしれません。 あるいは、マルタのような人と一緒に暮らしているかもしれません。イエスは、忍耐強く、思いやりに満ちた態度でマルタに接しておられましたが、それは私たちにとってすばらしいお手本です。イエスが何をなさったか見てみましょう。
まず初めに、イエスは、マルタ自身がいろいろなことを心配していることに気づくように配慮されました。イエスは、「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。」(41節)とおっしゃいました。イエスは、マルタの名前を繰り返して呼ばれましたが、その声は本当に優しい響きのこもったものだったと思います。イエスは、マルタが抱えている問題が何であるかをお示しになりました。そして、取り組まなければならない問題があることをマルタが知るようにされました。客を心からもてなすこと自体は、良いことです。食事をはじめとするすべてが最高のものであるように配慮することも、間違っていません。イエスは、マルタを裁かれたのではありません。マルタは、自分が心配していることに気づいていませんでした。イエスは、彼女がそのことに気づくように促されました。
次に、イエスは、心配するのは選択の結果であることを示されました。マルタは、もてなしの準備で心を煩わすことを選びました。そうすることによって、マルタは、妹を批判し、イエスが無神経であるとほのめかすような態度で、イエスに命じることさえしました。しかしイエスは、マルタを責めることはなさいませんでした。そのかわり、心配することを選んだのはマルタ自身だという事実をお教えになりました (42節)。
最後に、イエスは、選択肢はふたつあるとマルタにおっしゃいました。それは、世俗的で一時的なことを選ぶか、天の御国に関することで永遠に関わることを選ぶか、です。イエスはマルタに向かってこう言われました。「マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(42節)マルタがどんなにおいしい食事を用意したとしても、それはやがて忘れられてしまったでしょう。しかし、イエスの言葉はマリヤの心に残り、永遠の実をみのらせることになりました。
マルタが居間に来て、マリヤと一緒に座っていたらどうなったでしょうか。結局、何も食べなかったと思いますか。それは違います。マルタがマリヤとともに座っていたとしても、その場にいた人はみんな食事をしたでしょう。もしかしたら、イエスが、「豪華なフルコースの食事よ、今ここに現れよ。」とお命じになったかもしれません。
マルタは、イエスから大切なことを学んだと思います。一年あまりの後、イエスは再び彼らの家に夕食に招かれました。マルタとその一家は、ラザロを死からよみがえらせてくださったイエスをほめたたえるために、夕食をともにしました(ヨハネ12:1~11)。その聖書個所には、ただ、 「マルタは給仕していた。」(2節)と書かれているだけです。マルタは依然として夕食を準備するために働いていましたが、今度は、責任の重さに圧倒されてはいませんでした。彼女は、心配しやすい自分の傾向をコントロールできるようになっていたと思います。
心配ごとがあるなら、それにどう対処すればよいのか
順子さんはとても心配性な人でした。自分でもそれを認めていました。夫の仕事のことに始まり、近所の犬、子どもたちの昼食、車のガタガタいう音、家族の医療保険、教会の託児所、今晩のおかずにいたるまで、あらゆることを心配していました。
順子さんが特に心配していたことは、夜、家に泥棒が入らないかということでした。アや窓の鍵をかけ忘れていないか、家中を何度も点検しないと眠れませんでした。心配しすぎていると自分でもわかっていました。
しかし順子さんは、いまではこのような心配から解放されています。ある決断をしたので、もう心配しなくなりました。彼女は、考え方を変えたのです。すべてをコントロールできないという自分の弱さを感じるたびに、このときこそ霊的にも精神的にも成長できるチャンスなのだ、と考えるようにしました。そして具体的に、ふたつのことをしました。第一に、心配ごとへの対処法を聖書から学びました。第二に、心配ごとにとらわれないようにするために、いくつかの実際的なことをしました。もちろん彼女は、今でも家の戸締まりをします。それは、当然すべきことです。ただ、自分を無力だと感じてパニックになり何もできなくなる、ということはもうありません。
私たちも、順子さんのように、心配ごとを逆手にとって成長することができます。心配になったら、この心配は自分を成長させるための絶好の機会だと思って、次の4つのことを実践しましょう。
ステップ1 神に目を向ける
ステップ2 自分だけを信じることをやめる
ステップ3 親身になってくれる人と話す
ステップ4 心配ごとを主にゆだねる
ステップ1 神に目を向ける
心配性の人は、まだ起こっていないことに気を取られがちです。自分を弱いと感じ、最悪の事態を想像します。自分の力が及ばないようなことに対してさえ責任を感じます。しかし、そのような人も神に目を向けるなら、自分の弱さに対する解決策を神のご性質の中に見出すでしょう。神のご性質を知るための最良の方法は、聖書に記されている神のみことばを読むことです。
神はすべてを統べ治めておられる。この世のできごとで、神がご存知でないことなどなく、また、神のご支配のもとにないことなどないと聖書は教えています。「主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治め」る方です(詩篇103 : 19)。また「神はその権力をもってとこしえに統べ治める方」です(詩篇66:7)。神は、あらゆるものの上に立ち、すべてを支配する全能の主です。
心配性の人は、 物事が自分の思い通りにならないかもしれない、すなわち、何かひどいことが起こりそうだけれども、自分にはそれを止める力がないと感じます。こう感じて心の中に不安が生じたら、神がどのようなお方なのかということについてとても大切な3点を思い出しましょう。
1. 神はあらゆるところにおられる―詩篇139篇7節、エレミヤ書23章23~24節。私たちがどこにいようとも神はそこにおられます。どれほど自分が孤独であると感じていても、神は私たちとともにおられます。神はあらゆるところに存在しておられます。
2. 神はすべてのことを知っておられる―ヨブ記7章20節、詩篇33篇13節。神は、私たちが恐れを感じ、意気消沈し、 怯えることもご存知です。私たちは、心配すればするほど、神が私たちの置かれている状況をご存知ないかのように行動します。ところが、私たちには、将来何が起こるかわからなくても、神はそれをご存知です。神は、すべてのことを見通しておられます。神は、 私たちが何を必要としているのかを知っておられます。
3. 神は全能である―創世記17章1節、18章14節、マタイの福音書19章26節。心配性の人は、悪いことが起こるかもしれないのに、誰もそれをくいとめる力を持っていないと思っています。自分の娘が妊娠して未婚の母になったり、息子が刑務所に送られたりする事態を、神でさえくいとめられないと考えます。しかし、神の力は限りなく強いのです。「主に不可能なことがあろうか。」(創世記18:14)という問いへの答えは、「そのようなことはない。」です。
ウィリアム・バッカスは、『心配ごとの良いところ』という本の中で、スポーツ選手であった義兄のことを書いています。この義兄は心臓のバイパス手術を受けました。手術そのものは成功でしたが、術後24時間は危険な状態が続きました。彼は不安でした。病院のベッドに横たわり、バッカスにこう打ち明けたそうです。「これまでは、体を動かそうとすれば体も言うことを聞いてくれて意のままになった。しかし、今、自分自身に向かって、『不安を振り払え。』と言っても、『自分を追いつめるな。』と命じても、思うようにならない。」彼が不安を抑えようとすればするほど、不安は増大していったのです。
そのようなとき、神がこう語りかけておられるように感じられました。「すべてを治めているのは誰か。」彼はへりくだって、「あなたです。」と答えました。この真理に気づき、それを受け入れて口にしたとたん、彼の心は平安になりました。
神が重荷を負ってくださる。人生の悩みや苦しみが私たちの心に重くのしかかるとき、神は私たちに代わってその重荷を担ってくださいます。神は、私たち以上に、私たちの健康や、私たちの子どもや孫のことを気にかけておられます。また、私たちの愛する人たちが救われることや、世界の平和も気にかけておられます。神は、ダビデが熊やライオン、そしてペリシテの巨人を打ち倒すのを助けられました。神は、サウル王の殺意を伴った怒りから、ダビデを守ってくださいました。そして、ダビデが敵の国にいるときも、その命を守られました。だからこそ、ダビデはこう書くことができたのでしょう。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)
では、 どうすれば私たちの重荷を神にゆだねられるのでしょう。どうすれば私たちの重荷を神の肩に置き、それをそのまま神にゆだね続けることができるのでしょう。その答えは、すでに知っていることに基づいて行動する、です。私たちの神は、全能の神であり、信頼できるお方です。私たちは、このことを知っています。それなのに、心配になると、神を信頼しなくなります。 そして自分を神の立場に立たせてしまいます。それでは、自分たちの方が何でも神よりうまくできると言っていることになります。私たちは、このような気持ちを神に差し出さなければなりません。
石ころだらけの浜辺を歩いていたときのことです。小さな男の子が、石を集めて袋に入れて運んでいこうとしていました。しかし、家族の人たちが歩くスピードについていけず、転んでしまいました。その子には、石の入った袋を引きずっていく力などありません。ところが、そうこうしているうちに、その子の年の離れた兄が弟の様子に気づきました。そして、引き返してくると、袋ごと弟を抱き上げて連れて行ってくれました。この情景は、私たちが神に向かって両手を伸ばしさえすれば神がどうしてくださるのかを現わしています。 「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)
神は恐れを取り除いてくださる。心配とは、将来を恐れる気持ちの現れです。テストでどんな問題が出るのだろうか。歯の治療は痛いだろうか。台風がこの街を直撃するのだろうか。人は、将来起こることが自分にどのような影響を与えるかを考えて恐れます。
エデンの園でアダムとエバが罪を犯してから、 人は心配するようになりました。罪を犯した彼らは、神から隠れようとしました。神が食べることを禁じた木の実を食べた報いを恐れたためです(創世記3:10)。「…私は…、恐れて、隠れました。」とアダムは言いました。
神はまったくの善であり、この世の悪は、神がお造りになったものではありません。この事実をしっかり受け止めることは、恐れを追い払う助けになります。「主はいつくしみ深く、正しくあられる。」(詩篇25:8)とダビデとともに言えるなら、自分に自信が持てます。将来起こるかもしれないことが気にかかるなら、詩篇の作者にならい、「主のすばらしさを味わい、これを見つめ」ましょう(詩篇34:8)。
神が私たちを愛しておられることを信じて受け入れることも、恐れを追い払うために役立ちます。聖書は、人が本当に恐れるべきお方は神であると教えています(申命記10:12、20、13:4)。神を恐れることは、神を愛することであり、神を神として受け入れ、その大きな愛に安心して憩うことを意味します。神がお造りになった被造物を恐れるよりも、創造主である神を恐れることの方がはるかに良いことです。これから起こるかもしれないことを考えて言い様のない不安に怯えるよりも、ご自分のひとり子を与えてくださるほど私たちを愛してくださった神を恐れるほうがはるかに良いのです。
ダビデは、神が親切で愛に満ちたお方であることを、自分の体験から知っていました。ですから、こう断言したのです。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。」(詩篇23:4)詩篇31篇は、友人たちから見捨てられ(11~12節)、しかも敵から攻撃される(13、15節)というダビデの恐ろしい体験を記しています。しかし、ダビデは、こう言っています。「しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。 …私の時は、御手の中にあります。」(14、15節)
恐れを感じても、それに対処できます。聖書には、「恐れるな」という言葉が何度も出てきますが、それは、私たちには、ダビデと同じ選択をする責任があるということを意味します。その責任とは、神が親切で愛に満ちたお方であることを認め、ダビデと同じように、「それゆえ、われらは恐れない」(詩篇46:2)と告白することです。
神は私たちを支えてくださる。ダビデは、戦争や飢饉、そして悪い者たちについて語っているときも、神に信頼を寄せる者は、「満ち足りよう。」と言いました (詩篇37:19)。これは、基本的には、神にたよる者は恐れたり動揺したりすることがないという意味です。長い人生の中で、心配だと感じて当然のできごとにぶつかったとしても、恐れおののく必要はありません。なぜでしょうか。神が、ご自身の力で私たちを支えてくださるからです。
不安になると、気がかりなことがあるために本来すべきことができなくなります。生命に関わるような重い感染症にかかって入院し、危険な状態にある3歳の男の子の父親を想像してください。彼は、子どもの看病を妻に託して、仕事に出かけなくてはなりません。しかし、仕事をしていても、病室のベッドに横たわって病気と闘っている息子のことが、片時も頭から離れません。息子を戦地に送り出したことがある母親なら、その気持ちがよくわかるはずです。生まれて初めてのデートに出かけた娘や、車で外出したまま遅くまで帰宅しないティーン・エイジャーの息子を持つ父親も同じです。
このようなことで気をもんでいる間も、神は人を支えていてくださいます。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。」とダビデは記しています(詩篇55:22)。決して動揺することのない神が、人生の旅路で出逢う心配ごとや気がかりなことに私たちが振り回されないように、 しっかりと支えてくださいます。
神はいつもともにいてくださる。心配ごとは、一人ひとりが背負わなければならない重荷です。それで私たちは、心配ごとを自分一人で背負い込んでしまいがちです。そして心配すればするほど、孤独感や無力感が増していきます。しかし、神の子どもであるなら、ひとりぼっちになることも、見捨てられることもありません。ダビデは、詩篇139篇で、神が私たちとともにおられると語っています。ダビデはこの聖書個所で、自分が生まれる前から神は自分のすべてを知っておられ(13~16節)、また、どこに行こうとも、神の霊からは逃れられないと記しています(7~12節)。朝であれ夜であれ、陸であれ海であれ、また、天であれよみであれ、 神はそこにおられます。そうです。ダビデは、神が自分のことをいつも気にかけてくださっていることを知っていました。ダビデは、こう書いています。「私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。」(詩篇27:10)幼い頃、両親に置き去りにされたらどうしようと思った経験は、誰にでもあるでしょう。大人になっても、そんな幼い頃の恐怖がよみがえるときがあります。そんなときこそ、いつもあなたとともにいる、という神の約束を思い出さなければなりません。
預言者イザヤも、神が自分のことを常に気にかけてくださっていると知っていました。イザヤの口を通し、主はこう語られました。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。」(イザヤ41:10)
ヨシュアも、それを知っていました。神は、ヨシュアにこうおっしゃいました。「わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヨシュア1:5)
モーセも、そのことを知っていました。「信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」(ヘブル11:27)
イエスの弟子たちも、それを知っていました。天に上げられる直前、イエスは弟子たちに向かってこうおっしゃいました。「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
現代のクリスチャンも、 このことを知っています。 イエスがご自分の弟子たちにこのように約束されたとき、その約束は私たちにもしてくださったのです。
今度、心配ごとに圧倒されそうになったら、神に目を向け、次のことを思い出しましょう。
(1)神は、すべてを支配しておられる。
(2)神は、あなたの重荷を担うことがおできになる。
(3)神は、恐れを取り除くことがおできになる。
(4)神は、あなたを支えておられる。
(5)神は、あなたを見捨てることなど決してなさらない。
ステップ2 自分だけを信じることをやめる
新約聖書で、心配ごとについて書かれている教えの中心は、「山上の垂訓」の中にあります(マタイ6:25~34、本冊子46ページ参照)。イエスは、ここで、私たちを心配から解放する「解毒剤」を与えてくださいました。イエスの話を聞いていた人々は、信仰心の厚い人たちで、メシヤを探し求めてはいましたが、その到来を受け入れる心の準備はできていませんでした。この10節の中で、イエスは「心配」という言葉を6回も使っておられます。イエスが当時の人々に語られた教えは、目まぐるしく変化するストレスだらけの物質主義的な社会の中で必死になって生きている私たちにも語られているものです。
その教えは、要約するとこうなります。「あなたは心配ばかりしている。信仰によって生きているとは言えないからだ。あなたは、食べ物や着る物、そしてその他の『物』のことを心配している。神と神の国とを第一にしなさい。そうすれば、心配する必要などなくなる。」
主イエスは直前の個所で、地上にではなく天に宝を積むように弟子たちに命じられました(マタイ6:19~24)。そのとき群衆が、心の中でこうつぶやいていたのが聞こえるようです。「何を言ってるんだ。イエスが言っているように、いつも天国のことばかり考えて生きたらどうなる。きっと飢え死にしてしまうさ。結局のところ、人は食べていかなければならないのだから。」そのとおりです。それだからこそ、心配してはいけない、とイエスはまず命じられたのではないでしょうか(25節)。
心配の原因 ― マタイの福音書6章25~32節。この世の生活に関する思い煩いをやめない限り、たとえキリストを信じていても解放されて天に宝を積むようにはなりません。イエスは、生きていく上で絶対に必要なものが与えられるかどうか心配する必要はないと言われました。神が、空の鳥や野の花を生かしてくださるのなら、ご自分の子どもたちの面倒をみてくださるのは疑う余地のないことです。
私たちには、働いて、自分と自分の家族の生活を守る責任があります。使徒パウロは、「働きたくない者は食べるな」(Ⅱテサロニケ3:10)と命じています。イエスは、何もせずに必要なものが与えられるのを待っている人になれ、と教えているのではありません。イエスがおっしゃったことは、日々の必要について心配したり恐れたりすべきではないということです。
実際、多くの人は、生きていく上で絶対に必要だとされる以上のものを求めています。トレンディなレストランで食事をしたいとか、最新のファッションに身を包みたいとか、身近な人たちよりも少しだけグレードの高い車や、少しだけ広い家を購入したいと思っています。その他にも、世間が重要視するものを手に入れたいと願っています。物質主義的な暮らしにあまりにも慣れ親しんでいるので、この世と調子を合わせていけなくなったらどうしよう、と心配しています。
しかし、イエスは、心配する必要はまったくないとおっしゃいます。主は、心配ごとが人にとって切実な問題であることはご承知ですが、それは不必要だとお考えです。鳥には餌が必要ですが、そのことを心配して偏頭痛をおこす鳥などいません。花は「美しい装い」で飾られていますが、外見を気にしてストレス性胃炎になる花などありません。なぜでしょう。鳥も花も、天の父なる神が面倒をみてくださっているからです。
心配の裏に隠された本当の問題―マタイの福音書6章30節。人が心配になる理由は、イエスの「信仰の薄い人だな。」という言葉にはっきりと示されています。人は、神を信頼していないので、心配して疲れはててしまうのです。神が、この世を巧みにコントロールしておられると心から信じられません。すべての必要を満たすと、神がはっきり約束してくださっているにもかかわらず、神を信じずに自分の力で何とかしようとします。そのようなとき、私たちの視線は、天ではなく地上に向けられています。神ではなく、自分を信じています。将来についての責任を自分で背負っています。こんな重要なことを、神にゆだねることはもはやできないと感じているのです。
心配の解毒剤 ― マタイの福音書6章33~34節。イエスは、心配ごととは、結局のところ、その人の優先順位の表れだとおっしゃいます。私たちは、最も重要なことに焦点を合わさず、食べ物や衣服の良し悪し、勝ち組に入れるかどうか、また将来を自分の思い通りにできるかどうか、などを心配しています。イエスは言われました。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(33節)信仰を働かせましょう。神を第一にしましょう。そうすれば、あなたは天に宝を積むようになります。
イエスがおっしゃったことに耳を傾けるなら、心配を取り除くとは、選択の問題であることがわかります。自分自身ではなく神を信じるなら、不安はやがて消えるでしょう。神を選ぶか自分を選ぶか、その答えは、私たち自身が出さなければなりません。
食べ物が十分かどうか、衣服はどうか、家の広さや車のグレードはどうか、そして、老後の生活が保証されているのか、などが心配で仕方がないでしょうか。多くのクリスチャンは、失敗や辛い経験を通して、これらは、実はそれほど大切ではないということを学んできました。また、神は約束どおり必要を満たしてくださるお方であるということも学びました。彼らは、信仰を養い育てることが結局は一番大切だ、と学びました。人生の試練に立ち向かうとき、最も必要なものは信仰だからです。
ステップ3 親身になってくれる人と話す
パウロは、ピリピに住むクリスチャンにあてた手紙の中で、心配なときにできることを記しています。それは、自分の弱さに屈するのではなく、積極的に行動して心配に打ち勝つことです。
パウロは、ピリピの信徒たちに「何も思い煩わないで」いなさい、と命じました(ピリピ4:6)。これは、イエスがガリラヤの丘で命じられたことと同じです(マタイ6:25)。イエスは、心配が何の役にも立たないという事実を明らかにされましたが、パウロは、心配するかわりに祈りなさい、とピリピのクリスチャンに教えています。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6~7)
パウロは、ピリピ人への手紙4章6節で、3つの言葉を使って、心配するかわりにすべきことを説明しています。
1. 祈り パウロがこの聖書個所で用いている言葉は、神に話しかけることを意味するときにごく普通に用いられる言葉、すなわち「祈り」です。この言葉は、祈りにかかわるすべてのことを意味していますが、特に神を礼拝するという側面を強調しています。神に向かって祈るとき、神の偉大さを認め、神をほめたたえ、敬い、自分自身をこのお方に捧げることが求められます。神こそがすべてを統べ治める主であると認めるなら、心配ごとを神にゆだねるべきです。
2. 願い 2番目の言葉は、「願い」です。「願い」とは、私たちが何を必要としているのかを神に伝えることです。ここで言う「願い」とは、何かを神に真剣に求めることであり、必死に助けを求めることです。また、自分自身か、あるいは他の人たちのために願いごとを神の御前に差し出すという場合も考えられます。
心配ごとがあるなら、それを神のもとに持っていきましょう。神に助けを求めましょう。神に熱心に願い求めましょう。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7~8)
3. 感謝 祈りについてパウロが用いている3番目の言葉は、「感謝」です。私たちは、直面している問題に気を取られ過ぎていて、過去に神が私たちにどのようなめぐみを与えてくださったかを忘れています。神がめぐみとあわれみとをもって私たちを取り扱ってくださったことを忘れています。しかし、かつて神にどのように心を配っていただいたかを思い出すなら、心が安らかになります。
心配するのではなくて祈るなら、自分が背負ってしまった重荷を、全能の神の大きな肩の上に移すことができます。心配ごとをひとたび神にゆだねたら、神が私たちを愛し、私たち?…
なぜ人は心配するのか
使徒ペテロの体験は、人がなぜ心配するのかを理解する助けになります。イエスの弟子たちが、嵐の中で小船に乗っていたときの話を例にとって考えてみましょう。イエスは、弟子たちを先に出帆させ、ご自分は祈るために山に登られました(マタイ14:22~33)。すると、強風がガリラヤ湖の湖上を吹き荒れ、嵐の中で疲れ切った弟子たちは、漕ぎ進むことができませんでした。そのとき、イエスが水の上を歩いて弟子たちの方へ来られました。弟子たちはイエスの姿を見て、非常に恐れました。
イエスが弟子たちに向かって、「わたしだ。 恐れることはない。」とおっしゃいましたが、ペテロは疑っていました。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」(マタイ14:28)イエスが、「来なさい。」と命じると、ペテロは信仰によって水の上に足を降ろし、イエスに向かって歩き出しました。
しばらくしてから、周囲を見回すと、強風に荒れ狂う高波が目に入りました。そして、自分がとても危険な状況に置かれていることを実感し、この状況を乗り切ることができるかどうか疑い出しました。そのとたん、彼の身体は水中に沈み始めました。ペテロがイエスに助けを求めると、イエスは手を伸ばして彼をつかみ、船まで連れて行ってくださいました。
私たちは、ペテロと同じです。ペテロの経験から、私たちが心配する理由がわかります。
1. 心配するのは、人間が弱い生き物だからである。
私たちは、多くのものの影響から逃れることができません。病気になることがあります。経済状態が変わることもあるでしょう。車の故障や航空会社のストで、足止めされるかもしれません。飲酒運転の車にはねられることさえあります。また、罵声を浴びせられたり、痛烈に批判されたりして傷つくこともあります。私たちは、これらを恐れています。
人は、弱くて、その命には限りがあり、傷つきやすい存在です。肉体的にも情緒的にも、また霊的にも弱いものです。色々なことで傷ついてしまいます。人は人以外の何ものでもなく、だれでもペテロのように溺れることがあります。心配になるのは、人が弱い存在だからです。
2. 心配するのは、自分の弱さに気づくからである。 人は、ほとんどの場合、自分は比較的安全だと感じて暮らしています。家庭を安らぎの場にし、信頼性の高い車を購入し十分に整備して使います。定期的に健康診断を受け、良い医療保険に加入します。また、常に良い人間関係を維持しようと努力します。私たちは、肉体的、情緒的、そして霊的な分野でも、自己管理をして平安に暮らしています。
しかし、いったん何かが起こると、自分がいかに弱い存在であるか、身にしみてわかります。嵐の中で風と波を見て恐れを感じたペテロと同じです。それは、運転中にエンジンが妙な音を立て始めたときや、子どもが病気になったとき、胸に圧迫感を感じたり、原因不明のしこりを見つけたりしたときかもしれません。あるいは、職場でリストラが始まるという噂を耳にしたときでしょうか。それが何であれ、人は、あるできごとを契機として、自分の弱さを直視しなければならなくなります。
3. 心配するのは、神が信じられないからである。自分の弱さに直面したとき、人は二者択一をせまられます。神をしっかり見つめて、神こそが揺るぎないよりどころであると信頼し、自分が感じている不安を神にゆだねるか、自分の力にたよるかです。水の上を歩いていたペテロの状況は、まさにこれでした。ペテロは、危険を感じたとき、イエスを信頼する気持ちが吹き飛んでしまいました。しかし、自分ではどうすることもできないこともわかっていました。
ペテロに向けて語られたイエスの言葉には、はっとさせられる真実が隠されています。「信仰の薄い人だな。」(31節)ペテロは、イエスを信頼するのをやめてしまいました。自分の人生・感情・将来を、イエスにゆだねられなくなったとき、不安が頭をもたげます。それは罪です。なぜなら、もともと神が担われるべき責任を、自分で担おうとしているからです。そのようなとき、人は、神の力強い御手に自分自身をゆだねることをかたくなに拒んでいます。それでは、心配になって当然でしょう。
「心配でたまらない」
英夫さんと妻の恵子さんは心配でたまりません。英夫さんが37年間勤めてきた工場の生産量が25~30%カットされるかもしれないという噂が、何ヶ月もささやかれていました。もし本当なら、英夫さんのような中間管理職も含めて、多くの人がリストラの対象になるのは確実です。そして、今月末にリストラが実施されるらしいという情報が、会社側から漏れてきました。
ふたりは、先行きの不安で気が滅入っていました。将来についての疑問が次々と心に浮かんできました。「リストラされたら食べていけるのか。家のローンはどうすればよいのか。収入がないのに、年金や健康保険、生命保険の毎月の掛け金をどうやって支払えばよいのか。56歳でどんな再就職先があるのだろう。恵子も働きに出なければならないのか。」月末が近づくにつれ、英夫さんは口数が減り、内にこもりがちになりました。恵子さんは恵子さんで、夜中に目が覚めて眠れない夜が続きました。彼らは、本当に心配していました。
英夫さんも恵子さんもクリスチャンです。教会の礼拝には欠かさず出席し、霊的に成熟したクリスチャンであると自認しています。この夫婦は、クリスチャンは心配すべきではないと思っています。牧師は、「神様が、あなたがたの面倒を見てくださいますよ。」と言ってくれました。彼らもそう信じていますし、それについて祈りもしました。しかし、依然として不安はなくなりません。
私たちも、多かれ少なかれ、このふたりと同じような境遇にいます。人は、心配ごとを抱えて生きているのです。たとえば、アメリカでは、精神的な病気の第一位を「心配」が占めています(マイナース・マイヤー・ホーキンズ著『心配のない生活』17ページ)。心配とは、パニックになりそうな状況に置かれたときに体験する心理状態で、口の中が渇く、息苦しくなる、涙が止まらない、などの症状を引き起こすことがあります。また、原因がはっきりとはわからないが、すべてを破壊してしまうようなひどいことが起こるかもしれない、 という漠然とした恐怖感がいつまでも続く状態だ、と言う人もいます。さらに、心配とは、他の人が自分のことを好きになってくれないのではないか、また、自分の服装や話し方を嫌うのではないかと恐れることだ、と言う人もいます。
あるクリスチャンの母親は、イエスを自らの救い主であり主だと告白しないまま成人した自分の子どもたちがこのまま救われないのではないかと思うと心配でたまらず、 カウンセリングを受けました。彼女は、夜中に目が覚めると、そのことを考えてしまいます。 神が子どもたちを救ってくださると自分が本当に信じているか、何度も自分に問いかけました。彼女は、ついに心配で何もできなくなり、そんなことではいけないと思いました。
クリスチャンは、イエス・キリストを神と信じる信仰のおかげで心配ごとなどない、というわけではありません。クリスチャンも、他の人たちと同じように社会から様々なプレッシャーを受けて生活しています。また、クリスチャンだからこそ心配になることもあります。「クリスチャンの親として、また、妻として(あるいは夫として)、失敗してはいけない。」とか、「近所の人たちの前にも立派に生きなければ。」と考え、それができるのだろうかと心配になります。
自分は心配性だ、と思うと、それが新たな心配の種になったりします。心配してはいけないとわかっていても、心配してしまいます。そのようなときは、どうしたらいいのかわかりません。
本冊子は、聖書的かつ実際的な視点から、心配ごとへの対処法を分かち合うために書かれました。そもそも心配ごととは何でしょう。なぜ人は心配するのでしょう。聖書はそれについて何と言っているのでしょうか。これらを理解すれば、心配ごとをバネにして霊的に成長できます。
期待を胸に
そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓についた。—ヨハネ20:3-4
エスが十字架の上で息を引き取られた陰惨な一日が終わり、この世の希望は絶たれたように思われました。群衆やイエスの弟子たちは、このお方の教えが知恵に富み、また素晴らしい奇跡も起きるので驚いていました。しかし、それもたった数年のことでした。イエスはご自分を十字架から救おうとはされず、その生涯は終わりを告げたのです。イエスにはもう何も期待できないと、誰もが思いました。
しかし、復活の朝、希望がよみがえりました。ユージーン・バーナンドの絵に描かれているのは、ペテロとヨハネが墓に駈けつけている様子です。マグダラのマリヤは、夜が明けるや否や友人とともに墓に来ると、その中が空なのを発見し、彼らに告げました。この絵には、墓に向かって走っているペテロとヨハネの複雑な心境が描かれています。彼らの表情には、苦悩と安堵、悲しみと驚き、そして、絶望と驚嘆が混在しています。彼らの視線はしっかりと前方を見据え、その絵を鑑賞する者たちの意識を墓に釘付けにします。彼らは何を見つけたのでしょう。空になった墓です。そうです。救い主は生きかえったのです。
キリストは、今も生きておられます。けれども、私たちの多くは、このお方がまだ墓におられるかのように暮らしています。空になった墓の向こうを見てください。そこにおられる救い主は、復活の力で、私たちの人生を満たしてくださいます。Dave Egner
受難の犠牲者は、復活の勝利者だ。
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期待を胸に
聖書のみことば:ヨハネ20:1-10
そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓についた。—ヨハネ20:3-4
エスが十字架の上で息を引き取られた陰惨な一日が終わり、この世の希望は絶たれたように思われました。群衆やイエスの弟子たちは、このお方の教えが知恵に富み、また素晴らしい奇跡も起きるので驚いていました。しかし、それもたった数年のことでした。イエスはご自分を十字架から救おうとはされず、その生涯は終わりを告げたのです。イエスにはもう何も期待できないと、誰もが思いました。
しかし、復活の朝、希望がよみがえりました。ユージーン・バーナンドの絵に描かれているのは、ペテロとヨハネが墓に駈けつけている様子です。マグダラのマリヤは、夜が明けるや否や友人とともに墓に来ると、その中が空なのを発見し、彼らに告げました。この絵には、墓に向かって走っているペテロとヨハネの複雑な心境が描かれています。彼らの表情には、苦悩と安堵、悲しみと驚き、そして、絶望と驚嘆が混在しています。彼らの視線はしっかりと前方を見据え、その絵を鑑賞する者たちの意識を墓に釘付けにします。彼らは何を見つけたのでしょう。空になった墓です。そうです。救い主は生きかえったのです。
キリストは、今も生きておられます。けれども、私たちの多くは、このお方がまだ墓におられるかのように暮らしています。空になった墓の向こうを見てください。そこにおられる救い主は、復活の力で、私たちの人生を満たしてくださいます。
受難の犠牲者は、復活の勝利者だ。
愛は耳を傾ける
聖書のみことば:詩篇119:145-152
あなたの恵みによって私の声を聞いてください。—詩篇119:149
愛している人の話には耳を傾けます。もちろん、何を言いたいのかを本当に理解するには時間がかかり努力が必要です。しかしそうすることで、その人を心から思っていることや気持ちを尊重していることが伝わります。
作家のウェイン・アルダーソンは、ある若い牧師の話をしています。彼は、多くの時間を費やして教会員の悩みを聞いてあげていました。ある日、帰宅すると、妻に尋ねました。「今日はどんな一日だった?」すると妻は30分ほどかけて、車の調子が悪いことや息子の耳が痛むこと、電気製品の修理になかなか来てもらえないことなどを話しました。それで牧師は、彼女がどのように問題を解決すべきかひとつひとつ教え始めました。「そんなことは、もうとっくにやったわ。」夫を見つめて彼女はため息をつきました。「問題を解決してもらいたいわけではないの。私の一日に関心を持ってほしかっただけなの。」
ダビデは、「あなたの恵みによって私の声を聞いてください」(詩119:149)と祈りました。私を愛してくださる神は、私の話に耳を傾けてくださるお方です。それはこのダビデの祈りが示す真理です。聞くことは愛することのひとつの表れです。
妻や夫、職場の同僚、また教会の友人が、問題を整理したり元気づけられたりするために必要なことは、話しを聞いてもらうことなのかもしれません。聞き上手になりましょう。神も示しておられます。愛は聞くのです。
聞くとは、愛するために今日できる最善のことかもしれない。