神は十分である
聖書のみことば:マタイ14:22-33
イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。——マタイ14:27
打ち寄せる失望の波、果てしなく続く借金の返済、健康の衰えや病気、人間関係のトラブルなど、人生の問題に圧倒されて落ち込んでしまうときがあります。絶望的な気分になることさえあります。このような状況は、キリストの弟子たちにも起こりました。私にも起こったことがありました。
主イエスが断定形で語ってくださるみことばを読むと、私たちは安心し、慰められます。イエスがいてくださるなら十分だと、希望を持つことができます。そんなみことばのひとつは、マタイの福音書4章の場面です。サタンの誘惑に対してイエスは「……と書いてある」(4、7、10節)と語られます。イエスはこうして、みことばは真実であり、どんなに大きな誘惑や試練にも打ち勝つことができるのだと証明しておられます。また主は、「しっかりしなさい。わたしだ」(マタ14:27)と言われて、ご自身が激しい嵐や荒れ狂う海を静めるのに十分な存在であることを、おびえきった弟子たちに示されました。
イエスは十字架に架けられたとき、「完了した」(ヨハ19:30)と言われました。こうしてご自身の死は、私たちが罪の負債を赦され自由になるために、十分な贖いであることを断言されました。
どんな状況の中にも、イエスは慈愛に満ちて臨在しておられます。そして、私たちを確実に、十分に守ってくださいます。
神に愛されている人も試練に遭う。しかし神の愛は、試練を耐え抜けるように私たちを助ける。
神の御名を呼べば
独唱の賛美はゴードン・ジェンセンの「御名を呼べば、近くにおられる(He’s as Close as the Mention of His Name)」でしたが、落ち着いたバスバリトンの歌声が、歌詞の意味を私のたましいの奥底まで届けてくれました。神の御名を呼ぶと、神が近くにおられる、というのは真理です。歳をとるほどに、ますますありがたくなる真理です。
燃える柴
夜の森で肝試しの儀式をさせられる、アメリカ先住民の少年の話があります。夜のとばりが下り、あたりは真っ暗闇。木々がきしみ、フクロウが鳴き、コヨーテの遠吠えが響きます。少年はひとり恐怖におびえながら、一晩中頑張ります。そしてやっと朝が来ると、近くに人がいました。それは、一晩中彼を見守っていてくれた祖父でした。
釣りの教訓
波静かなピアット湖で釣りをしました。水草の生い茂っている脇に糸を垂らし、澄んだ水を上から見ていると、大きなコクチバスが出てきて竿の先の餌をじっと見つめました。そして草間に戻り、また出てくるという行動を繰り返すうちに、ついに釣り針に気づきました。すると急いできびすをかえし、二度と戻っては来ませんでした。
泥の水たまり
友人のエドには幼い息子がいます。彼は息子が泥の水たまりの中に立っていたので、そこから出なさいと言いました。すると、息子は水たまりの中を走り始めました。「走るな」と言うと、歩きました。「歩くな」と言うと、水たまりに立ったまま、不満そうに父親を見ています。男の子は、父親の言うことをとにかく聞きたくなかったのでしょう。私にもこの子と同じような頑固さがあります。自分の行いが神に喜ばれるものでないと知りながらも、結局そうしてしまいます。神はイスラエルの民に「あなたの神、主の御声によく聞き従」うように言われましたが
なぜこの私を
英国人牧師ジョセフ・パーカーは、「イエスは、なぜユダを弟子に選ばれたのか」と質問され、しばし考えました。しかし、答えは出てきません。その上、「なぜイエスは、私を選ばれたのか」という、より難しい問題にぶつかりました。これは、現在まで問われつづけてきた問題です。人は、自らの罪深さを知り、罪悪感に圧倒され、イエスにあわれみを請います。そして、神が人を愛し、イエスが身代わりに死んでくださったので、すべての罪は赦された、という人の理解を超えた真理を体験し、驚き喜びます。
内に住まわれることば
主日礼拝の聖書朗読、聖書に忠実な礼拝説教、賛美歌、聖書の勉強会、デボーション・エッセー…。これらは、確かに神の真理を教えてくれますが、だからといって、自分で聖書を学ばなくて良い訳ではありません。
導く神
トルコのイスタンブールで2005年、ある事件が起こりました。1匹の羊が崖から飛び降りてしまうと、1,500匹がそれにつづき、結局、3分の1の羊が死んでしまいました。羊には、群れの他の羊に追従するという習性があります。
甘美な休息
寝返りを打ったり、枕の位置を変えたり形を整えたりしても、何をどうしても眠れないときがあります。ある新聞のコラムは「良い眠り」のためのアイデアを色々紹介していましたが、結局のところ、万能な策は無いと結論づけていました。