なおのこと、どんなにか
第一次世界大戦中の1915年10月、オズワルド・チェンバーズは英連邦軍のチャプレンとしてエジプトの訓練基地に赴任しました。平日夜間の集会を告知すると、400名の兵士らが広い兵舎に詰めかけました。彼は戦地で神を求める兵士たちと対話し「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」 (ルカ11:13)を引用しました。
無名
昔、雑誌「ザ・ライター」に掲載されたジェイン・ヨーレンのエッセー「作者不詳になるために」をコピーし、ページが擦り切れるほど何度も読みました。彼女は「最高の作家は心の底から作者不詳と署名したい人です。内容が大切なのであって筆者が大切ではないからです」と語りました。
謎を解く
スヌーピーの作者チャールズ・シュルツ氏の洞察力に富んだユーモアが大好きです。特に好きな作品は、教会の青年たちについてで、登場人物は「旧約聖書の謎を解く一歩を踏み出したよ。それを読み始めたんだ!」と聖書を片手に言うのです。(『Teen-Ager Is Not a Disease』より)
敷石との出会い
現代のエルサレムは、何世紀にも渡って戦争と破壊が繰り返された、瓦礫の上に建てられた都市です。私たち家族は、イエスがここを通って十字架刑に向われたと伝承されるヴィアドロローサ(悲しみの道)を歩き、途中にあるシオン女子修道院の地下も見学しました。そこには、近年の建設工事で発掘された古い敷石が展示されています。その石にはローマ兵が暇つぶしにゲームをした跡も残っていました。
目を覚ましなさい!
出張が多く毎日違う場所で寝起きしていた頃、ホテルのチェックインと同時にモーニングコールを頼みました。翌朝、きちんと動き始めるためには、自分の目覚まし時計に加えて電話の呼び出し音が必要でした。
神による中断
割り込んできた用事に多くの時間が割かれていると専門家は語ります。家庭でも職場でも、思いがけない用事で予定が狂ってしまうことがあります。
天候に合った服
買ってきた冬物の服の値札を取ると、その裏に「警告:この革新的な商品はアウトドアから戻りたくないと思わせてしまいます」と書かれていて、にっこりさせられました。天候に合った服を着けるなら、人は、厳しい環境でも生きられるばかりか、元気でいることができます。
みじめな成功
聖書のみことば:ルカ9:18-27
だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。—ルカ9:23
ジョージ・マクドナルド(1824-1905)は、スコットランドの小説家、詩人であり、キリスト教の牧師でもあります。彼は、「何をしたにしても、神抜きならみじめな失敗に終わる方が良い。さもなくば、もっとみじめな成功になるだろう」と記しています。この興味深い洞察は、マクドナルドの著書「語られなかった説教集」に記されており、今日の作家や講演家も引用することがあります。
イエスは「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです」と教えられました(ルカ9:23-24)。マクドナルドは、この「無私」の教えの適用を考えていました。
マクドナルドによると、「無私」は、私たちの心に上る自然な願いを抑圧しようとすることではありません。彼は述べました。「我々は、物事をキリストが見るように見、キリストが考えるように考えなければならない。神の意図なさることを、自分が全身全霊で達成しようとすることだと捉え、…『私は何をしたいのか』などという考えが浮かぶことは、もはやない。むしろ、『生きて働かれるあのお方は、私に何をさせたいのだろう』と考えるのだ。」
自分が欲しいものだけを得ているのは、みじめな成功者です。本当の成功は、イエスのために自分の「いのち」をいったん失い、それをより完全な形で神のみこころの内に見つけることです。
謙遜と無私の精神が先にあって、より親しく、より深く、神とともに歩むことができる。
指揮者を見て
世界的に有名なバイオリニストのジョシュア・ベルは、アカデミー室内管弦楽団を独自の方法で指揮します。指揮棒は振らず、ストラディバリウスを弾いて、44名のメンバーといっしょに演奏するのです。ベルはラジオ番組で「バイオリンを弾きながらでも様々な指示を出すことができます。メンバーは、私のバイオリンの音や眉の動き、弓使いの小さな変化で、私の求める音を理解します」と語りました。