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David H. Roper

David H. Roper

デービッド・ローパー氏は、30年余りの牧会経験の持ち主で、今はアイダホ・マウンテン・ミニストリーズの代表者です。これは、牧師夫婦を励ますために開かれたリトリート・センターです。ローパー氏は、妻キャロリンと川辺で過ごすことと釣りが趣味だといいます。

寄稿一覧 David H. Roper

強い人

何年か前、夜遅くにエレベーターに乗っていた時のことです。周りには何人かの男性がいましたが、皆疲れているようで、しょぼくれていました。そのとき、エレベーターが止まり、カウボーイ風の男性が乗り込んできました。年季の入った帽子に染みのついた羊皮のコート、そしてウエスタンブーツをはいて、堂々としています。彼は、私たちをじろっと見ると、しわがれた太い声で挨拶をしました。すると、私も含めてみんなは、びしっと背筋を伸ばし、胸を張り、自分も堂々とした男だ、という格好をしました。

見守る羊飼い

アイダホの羊飼いたちは、春になると羊たちを低地から山岳地帯へ移動させます。何千という羊の群れが山道を登って移動し、夏の牧草地に行きます。

私たち夫婦は先週、ショウ山で羊の群れを見かけました。羊たちは静かに流れる小川のかたわらの草地に寝そべっていました。詩篇23篇を彷彿させるような美しい光景でしたが、そこには羊飼いがいません。羊たちは、自分たちだけで群れているようでした。ところが、数匹が群れをさまよい出て渓谷の方に歩き出したときのことです。突然上の方から、鋭い笛の音が聞こえました。見上げると、羊飼いが群れを見下ろせる丘の上に座っていて、羊たちを見守っていました。彼のそばには1匹の山岳犬と2匹のボーダーコリーがいて、羊飼いの合図と同時に丘を駈け下り、迷い出た羊をもとの群れに戻しました。

主イエスは「良き羊飼い」ですから、あなたをこのように見守っておられます。あなたの目に神は見えないのですが、神の目にはあなたがはっきり映っています。神はあなたの名前を知っておられるし、あなたのすべてをご存知です。あなたは神の牧場の羊です(エゼ34:31)。神はご自分の羊を「救い出して、世話をする」(12節)と約束しておられます。「良い牧場」(14節)で養い、「傷ついたものを包み、病気のものを力づける」(16節)と語られます。

神は細心の注意を払って、あなたを守ってくださいます。あなたはそんな主に、自分を委ねることができるのです。

ひとりずつ

エドワード・ペイソン牧師は過ぎし日の有名な説教者のひとりですが、ある嵐の日の主日礼拝に集った人は、たったひとりでした。その数ヶ月後、あのときひとりで礼拝していた人がやって来て、「私はあの礼拝で救い主と出会いました」と言いました。「あなたが罪と救いについて語るたびに、誰のことかと周りを見回しました。しかし、そこにいるのは私ひとりでしたから、語られた一語一語は私に向けられたものだと受け止めて、良心に刻むよりほかなかったのです」。

このように神は、私たちをひとり、またひとりと救ってくださいますから、そのひとりに出会う機会があるのなら、そこがあなたの宣教地です。「キリストが宿る心を持つ人は、誰でも宣教師であり、キリストを知らない人の心は、宣教の地だ」というスローガンもあります。世界宣教をひとりですることはできませんが、隣人を愛することはできます。その「隣人」とは、生活の中で出会っていく人たちのことです。

ピリポは、聖書の意味が分からなくて困っていたエチオピヤ人の宦官と、聖霊に導かれて出会いました(使8:26-35)。聖霊は、ピリポに適切なことばを与え、宦官はキリストを信じる信仰を告白したのです。

神が準備してくださった人と出会えるように祈りましょう。神は、適切な時と適切な場所でその人に語れるように導いてくださいます。主はあなたの口を通して語り、あなたの手を使って御業をなし、あなたの内に御心にかなった偉大なご計画を成し遂げられます。

友情

友情は人生に与えられた最高の贈物のひとつです。真の友は、相手のために特別良いものをささげます。人生にとって最高に良いものとは、主を知り、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして主を愛するようになることです。ナチスの時代に殉教したドイツの牧師、ディートリッヒ・ボンヘッファーは「友情の目指すところはもっぱら、神があなたの友に何を望んでおられるかによって決定づけられる」と言いました。

ダビデの友、ヨナタンは真の友情のよい模範です。サウルがいのちをねらって出てきたとき、ダビデは流浪の身でジフの荒野に隠れていました(Ⅰサム23:15)。ヨナタンはホレシュにダビデを探しに行き、ふたりは再会します。ここで重要なのは、ヨナタンが来た目的です。彼は、ダビデが神にあって力づけられるように助けようとしました。聖書が「神の御名によってダビデを力づけた」と語るとおりです(16節)。

これがクリスチャンの友情の本質です。気が合ったり、共通の趣味があったり、話をしたり、笑ったりというだけでなく、永遠のいのちのみことばを相手の心に植えて、神の知恵を思い出させ、みことばで心をリフレッシュさせ、神の御名によって力づけるという関係です。

友のために祈り、友にかけるふさわしい言葉を主が与えてくださるように願いましょう。友が主とみことばから新たな力を得ることができるように、時にかなった言葉を、あなたの口に上らせてくださいますように。

まずは基本

孫のサラがまだ幼かったころ、大きくなったらお父さんのようなバスケットボールのコーチになりたいけれども、今はできないと言いました。なぜなら、コーチになるためにはまず選手になって、靴の紐を締めなければならないけれど、自分にはまだそれができないからだそうです。

「まずは基本が肝心だ」とよく言われますが、人生の基本は神を知り、神を喜ぶことです。神の存在を認め、神というお方を知るならば、「このような人に…」と意図して創られた人になることができます。ダビデ王が息子ソロモンに与えた勧告は、「わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい」です(I 歴 28:9)。神を知ることは可能だということを忘れないでください。神は、単なる神学的な概念や論理ではありません。人なるお方です。人と同じように、考え、意志、喜び、感覚、愛、願望を持っておられます。A. W. トーザーは、「神は人格を持ったお方であり、私たちが心を整えてその奥義を知ろうとすれば、それに従ってますます親しく知ることができる」と書いています。この言葉の重要な点は「心を整える」です。

神は、ご自分を知るために、人に大きな努力を強いたりなさいません。神を知りたい人はだれでも、神を知ることができます。神はご自身の愛を私たちに押し付けるお方ではなく、私たちが歩み寄るのを忍耐強く待っておられます。神はあなたに知ってもらいたいと思っておられます。神を知ることが人生の基本です。

神を呼び求める

信仰を持って長くたちますが、まだ祈りを完全には理解していません。私にとって、祈りは神秘に満ちています。しかし、ひとつ分かっていることは、切羽詰ったとき、祈りは自然に心の奥底から湧き上がり、口をついて出るということです。

気が動転したとき、怖いと感じたとき、もう限界だと思ったとき、自分の小さな幸せが奪われそうになったとき、または大きなチャレンジを受けたときなど、私たちは反射的に、そして無意識に祈ります。そんなときは普通、「主よ、助けてください!」と叫び求めるのです。

神学者のユージーン・ピーターソンは「祈りの言葉は、困難な試練の中で錬られる。自分の力ではどうにもならず助けを求めるとき、自分の置かれた状況から抜け出したいと思うとき、自分が嫌で変わりたいと思うとき、私たちは飾らない素朴な言葉を使い、この言葉が祈りの基礎になる」と記しました。

祈りは困った出来事から始まり、続いていきます。なぜなら、私たちは多かれ少なかれ、常に何らかの問題を抱えているからです。祈りは特別な準備を必要とせず、正しい用語というものもありません。また、定められた作法もありません。祈りは、私たちが必要に迫られるところから始まり、やがて私たちの習慣になっていきます、私たちは、良きにつけ、悪しきにつけ、人生のあらゆることに対して祈るようになります(ピリ4:6)。

どんなことでも神に祈ることができるのは、何と素晴らしい特権でしょう。

古き良き時代

私たちは時々、「古き良き時代」を懐かしく思い出します。しかし中には、過ぎた日の思い出は辛い記憶でしかないという人もいるでしょう。眠れぬ夜の闇の中、過去の失敗や失望、叶わなかった夢などがよみがえってきて、人生が自分にひどい仕打ちをしたのだと思い出してしまいます。

過去を思い出すときは、ダビデに倣ってみませんか。神の良くしてくださったことに思いを巡らし、じっくり考えるのがよいでしょう。ダビデは、「あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています」と述べています(詩篇143:5)。神の慈しみを思い出そうとするなら、ずっと以前から主の恵みを受けてきたことに気付きます。このような記憶は最良のものを育てます。さらに深く神を求めたり、今以上に神に取り扱っていただきたいと真摯に求める気持ちを呼び起こします。このようにして過去を思い出すなら、それは神を良く知り、神と深く交わる機会となるのです。

ある老婦人が、ロッキングチェアに座って両手を膝の上で組み、何時間も遠くを見つめていたそうです。ある日娘が尋ねました。「お母さん、静かに座って何を考えているの?」すると、彼女は目をきらりと輝かせて、静かに答えました。「それはね、イエスさまと私との秘密よ。」

私たちの思い出や黙想が、私たちを主のみもとに引き寄せてくれますように。私はそう祈ります。

しあわせな人生

富や力、美しさ、愛や結婚、娯楽などはどれも良いことですが、人生の極みではありません。人生の極みとは、神を愛し、神の愛を受け入れることです。つまり、神に栄誉を帰し、神を人生の友とすることがベストです。こういう生き方が、私たちを最良の人生に導きます。それは満足と喜びを与えてくれます。また、クリスチャンは永遠までもこのような生き方をするのです(ヨハ10:10)。

ですから私たちは、神と一緒に過ごす時間をしっかり確保して、神の愛に憩わなくてはなりません。私たちは、この愛によって造られました。神とともにあることが、私たちの存在理由であり、最高の人生を送る手段です。

詩篇の作者は「私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう」と語ります(詩73:28)。つまり、幸せな人生とは、誰にもまして私を愛してくださる神に近づくことです。

では、どうすれば神に近づくことができるでしょう。私には昔からしていることがあります。毎朝数分間、福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)を読み、イエスが言われたことや、なさったことを書き留めます。結局のところ、神がどのようなお方であるかを示すために、イエスはこの世に来られたのですから(ヘブ1:1-3)。福音書の登場人物を自分と置き換えてみてください。例えば、ツァラアトに冒された患者にイエスが愛の御手で触れ、病を癒されたところはどうでしょう(マコ1:40-45)。神が、どれほどあなたを愛しておられるか考えましょう。神に感謝しましょう。

 

賢い人の輪

私は以前、カリフォルニア州のある教会の役員でしたが、当時、最年長だったボブ・スミス兄は、役員会が導きを必要とするとき、いつも神のみことばに立ち返るように促してくれる人でした。