愛が届く
ずいぶん前のことですが、こんな漫画がありました。仏頂面の老人が、しわくちゃのパジャマを着て玄関に立っています。彼は夜の戸締りをしたところでした。カギが4つ、南京錠2つ、それにドアチェーンという用心深さです。そのとき老人は、小さな白い封筒がドアの下にはさまっているのに気づきました。封筒には大きなハート型のシールが貼ってありました。バレンタインです。愛が彼の元に届いたのです。
遠くから
数十年前にヒットした「ディスタンス」という曲は、平和で調和のとれた世界を夢見ています。
その歌は「遠いところから神様が見てくれている」と語ります。そのとおり、神は私たちを見ておられます。けれども、遠くからではありません。神は今、あなたのいるその部屋に、あなたとともにおられ、無限の愛を込めて、あなたをじっと見つめておられます。
修道院の厨房で長年、皿やなべを洗ったり、他の修道士のはき物を繕いながら深い霊性を育てた有名なブラザー・ローレンス(修道士)を思い出します。彼は、「できるだけ頻繁に神の礼拝者となり、神の神聖な臨在に心を定めます」と記しました。
これは、私たちの使命でもあります。それなのに、私たちはそれを忘れがちです。そこで、神のご臨在を再認識させるものを身近に置くのはどうでしょう。私は、十字架にかかられ、よみがえられたイエスが常に私のとなりにおられることを忘れないために、自分の机の上の棚に古い釘を打ち込みました。私たちのすべきことは「いつも私の前に主を置」くことです(詩16:8)。そうすれば、主は「世の終わりまで」(マタ28:20)私たちとともにおられ、「私たちひとりひとりから遠く離れてはおられ」ない(使17:27)と信じることができます。
忘れないということは、毎日折々に「いつも共にいる」と言ってくださったイエスの約束を思い起こし、「イエスさま、おはようございます」とか、「ありがとうございます」「助けてください!」「愛してます!」と言ったりするくらいの簡単なことなのかもしれません。
見て待つこと
イザヤ18章では、全世界が神の民と戦おうとしているように思えます。しかし、全能の神はどのように対応されたでしょう。それは、「わたしは静まって、わたしの所からながめよう」でした(4節)。神が静まられたのは、神の民に対するたくらみを容認なさったからでしょうか。いいえ、違います。神は時が満ちて動かれます。つまり、ご自身のみこころに則ったちょうどよい時に、神は動かれます。
イエスは動かれず、ラザロは4日間、墓の中にいました(ヨハ11:39)。イエスは彼の死を知らなかったのでしょうか。それとも、心配しておられなかったのでしょうか。いいえ、非常に心配しておられました。しかし、イエスは教えるべきことを教えるために、ちょうど良いときを待っておられました。
聖書には神の「遅れ」が記録されています。その多くは一見、説明できない「遅れ」のようです。しかし、そのどれもが、神の深い知恵と愛がもたらす「遅れ」なのです。何はともあれ、神の「遅れ」を受容するなら、そこには静かな品性が生まれます。それは、謙遜であり、忍耐力、辛抱強さ、粘り強さです。このような品性を育てるのは並大抵のことではありません。
あなたは悩んでいますか。神は遠いかなたにおられるように感じますか。神は、あなたの窮状に無関心ではありません。あなたの祈りに心を留めておられます。神はご自分の目的が達成されるのを待っておられます。ですから、その時が来ると介入されます。神は決して急がれませんが、手遅れになることも絶対にありません。