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Estera Pirosca Escobar

Estera Pirosca Escobar

ルーマニア人のエステラ・ピロスカ・エスコバー氏は、あらゆる国の人々を思う心の持ち主です。米国の大学に留学中、孤独を経験しホームシックにかかりました。そのとき、外国人に手を差し伸べるクリスチャンの愛も経験したと言います。当時、愛情のこもったおもてなしを受けたたくさんの留学生がイエスを受け入れました。エスコバー氏はInternational Friendships, Inc. (IFI)のフィールドディレクターとして、米国内のIFI奉仕リーダーたちを励まし、各地での働きを後押ししています。エステラ氏はチリ人の夫フランシスコとともに、ミシガン州グランドラピッツに住んでいます。

寄稿一覧 Estera Pirosca Escobar

弱者に手を

マザー・テレサのノーベル平和賞の受賞は驚きに値しません。彼女は例によって「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人、そのような人々の名において」賞をもらったのです。また、生涯の大部分を彼らにささげました。

永遠を見る目

友人のマデリンは、子や孫たちが永遠を見る目を持つように祈ります。心乱れる日々の後、娘が亡くなりました。マデリンは悲しみの中、家族が苦しみに飲み込まれて刹那的にならず、むしろ永遠の視点をもっていつくしみの神を信じ、希望に満たされるように祈っています。

平安という賜物

米国の第41代大統領の妻、バーバラ・ブッシュ夫人は亡くなる前、「私はイエスが私の救い主だと信じているので死は怖くありません」と言いました。この確信は強い信仰を表しています。死ぬ時でさえ神の平安に包まれていました。

御父は歌う

ある日、ダンディと彼の行きつけのレストランに行くと、ウェイトレスが大変そうでした。彼は注文の際、ちょっとしたやり取りをすると、覚えやすいテンポのいい曲を静かに歌って、彼女を励ましました。歌で人を元気づけるのが好きなのです。ウェイトレスはにっこり笑って「ありがとうございます!おかげでいい日になりました」と言いました。

復讐ではなく

宣教師のジム・エリオットと4人の同僚が1956年、ワオラニ族に惨殺された後、驚くべき決断をした人たちがいました。ジムの妻エリザベスは、幼い娘を伴い、もうひとりの被害者の姉とワオラニ族の村に移り住んだのです。彼女たちはそこに数年間住んで言葉を学び、聖書をワオラニ族の言語に翻訳しました。この女性たちの赦しと優しさはワオラニ族の人たちに神の愛を確信させ、多くの人たちがイエスを救い主だと信じました。

希望はあるのか

エドワード・ペイソン(1783年-1827年)の人生は災難つづきでした。弟の死、双極性障害の苦しみ、連日の偏頭痛。その上、落馬事故の後遺症で腕は麻痺し、結核で死にかけました。しかし、彼は人生をあきらめませんでした。死後、友人たちは、彼が喜びに満ちていたと言いました。なぜでしょう。

和解の扉

アイルランドの首都ダブリンの聖パトリック大聖堂には、ある物語にまつわる扉があります。バトラー家とフィッツジェラルド家が1492年に地域の覇権をめぐって争ったとき、バトラー一家は大聖堂に逃げ込み、フィッツジェラルド家の停戦の求めに応じませんでした。そこで、フィッツジェラルド家の人たちはドアに穴を開け、家長が握手のために手を差し入れました。両家は和解し、敵は友となりました。

嵐を静める方

ジムは、仲間の不和、批判的な態度、誤解など、職場で抱える問題を語りました。私は1時間ほど辛抱強く聞いてから「こんな時はどうすべきか、イエスに尋ねよう」と言い、静かにともに5分ほど座っていました。すると驚いたことに、神の平安にすっぽりと包まれたように感じたのです。そして安心した私たちは、困難と向き合う自信を取り戻しました。

一致

現在のチェコ共和国、モラビア地方のクリスチャンが、1722年、迫害を逃れて、ある寛大なドイツ人伯爵の領地に住みつきました。 4年間で300人以上が、その地に来ました。ところが、宗教難民の理想郷のはずだった地では、教理の違いから不和が目立ちました。そこで彼らは、ちょっとした選択をしましたが、それが共同体を目覚ましく回復させました。彼らは、意見の違いではなく、共通している部分に焦点を合わせたのです。