作者

すべて見る
Estera Pirosca Escobar

Estera Pirosca Escobar

ルーマニア人のエステラ・ピロスカ・エスコバー氏は、あらゆる国の人々を思う心の持ち主です。米国の大学に留学中、孤独を経験しホームシックにかかりました。そのとき、外国人に手を差し伸べるクリスチャンの愛も経験したと言います。当時、愛情のこもったおもてなしを受けたたくさんの留学生がイエスを受け入れました。エスコバー氏はInternational Friendships, Inc. (IFI)のフィールドディレクターとして、米国内のIFI奉仕リーダーたちを励まし、各地での働きを後押ししています。エステラ氏はチリ人の夫フランシスコとともに、ミシガン州グランドラピッツに住んでいます。

寄稿一覧 Estera Pirosca Escobar

希望はあるのか

エドワード・ペイソン(1783年-1827年)の人生は災難つづきでした。弟の死、双極性障害の苦しみ、連日の偏頭痛。その上、落馬事故の後遺症で腕は麻痺し、結核で死にかけました。しかし、彼は人生をあきらめませんでした。死後、友人たちは、彼が喜びに満ちていたと言いました。なぜでしょう。

和解の扉

アイルランドの首都ダブリンの聖パトリック大聖堂には、ある物語にまつわる扉があります。バトラー家とフィッツジェラルド家が1492年に地域の覇権をめぐって争ったとき、バトラー一家は大聖堂に逃げ込み、フィッツジェラルド家の停戦の求めに応じませんでした。そこで、フィッツジェラルド家の人たちはドアに穴を開け、家長が握手のために手を差し入れました。両家は和解し、敵は友となりました。

嵐を静める方

ジムは、仲間の不和、批判的な態度、誤解など、職場で抱える問題を語りました。私は1時間ほど辛抱強く聞いてから「こんな時はどうすべきか、イエスに尋ねよう」と言い、静かにともに5分ほど座っていました。すると驚いたことに、神の平安にすっぽりと包まれたように感じたのです。そして安心した私たちは、困難と向き合う自信を取り戻しました。

一致

現在のチェコ共和国、モラビア地方のクリスチャンが、1722年、迫害を逃れて、ある寛大なドイツ人伯爵の領地に住みつきました。 4年間で300人以上が、その地に来ました。ところが、宗教難民の理想郷のはずだった地では、教理の違いから不和が目立ちました。そこで彼らは、ちょっとした選択をしましたが、それが共同体を目覚ましく回復させました。彼らは、意見の違いではなく、共通している部分に焦点を合わせたのです。

素晴らしい地

エリス島を通過したアメリカ移民の第一号アニー・ムーアは、人生の再出発に興奮していたに違いありません。1892年のことです。その後、何百万人もの人々が、その地を通過しました。アニーは10代でしたが、アイルランドの困難な生活を捨て、手には小さなカバン、胸には夢と希望、チャンスの国に対する期待を携えて、新天地にやって来たのです。

求められている

ロンとナンシーの夫婦関係は破綻寸前でした。不倫したナンシーは、神の前に罪を認めましたが、みこころに従い夫に謝罪するには葛藤がありました。しかし事実を打ち明けると、ロンは離婚ではなく、悔い改めたことを証明し信頼を取り戻させて欲しいと、やり直すチャンスをくれました。神はふたりの結婚生活を奇跡的に守られました。

貫いた信仰

ハララン・ポポフの人生は、1948年のある朝、玄関の呼び鈴の音で激変しました。キリスト信仰を理由にブルガリア警察に逮捕され投獄されたのです。それから13年間、鉄格子の向こうで、力と勇気を祈りながら過ごしました。虐待を受けながらもともにおられた主を信じ、福音を仲間の囚人たちに伝え、多くの人が信じました。

流れ者の少年

ロドニー・スミスが1877年、教会でキリストを救い主として受け入れたとき「何だ。流れ者か」と侮蔑のささやきが聞こえました。無学なジプシーの家に生まれた少年を気に留める人はなかったでしょう。しかし、彼はそんな悪口に耳を貸さず、神が自分の人生に目的を持っておられると確信し、聖書と英語の辞書を使って独学で読み書きをマスターしました。そして「イエスへの道は、ケンブリッジやハーバード、イェール、また詩人たちによるのではない。カルバリの丘と呼ばれる古い道によるのだ」と語ります。彼は、神に用いられる伝道者となり、英国と米国で多くの人をイエスに導きました。

導く人

自分に自信が持てなかった頃、リッチ牧師は私の潜在能力と可能性を信じてくれました。また、謙遜と愛で仕える姿を示して、指導者の模範になってくれました。その影響で、私は今日、神に仕え、助言者、指導者になっています。