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Joe Stowell

Joe Stowell

ジョーストウェル氏は、ミシガン州のコーナーストーン大学の学長です。Jesus Nation(「イエスの民」邦訳なし)をはじめとする数多くの著書も執筆しています。妻マーティとの間に、成人した3人の子どもと孫が数人あります。

寄稿一覧 Joe Stowell

犬の落下傘部隊

第二次世界大戦の連合軍に、犬の落下傘部隊があったと聞いて驚きました。地雷をかぎつけて危険を知らせることのできる鋭い臭覚を持つ犬が、ノルマンディ上陸作戦(1944年6月6日)の準備に貢献しました。当時、犬を敵の背後の部隊に送る唯一の方法は、パラシュートで落下させることでした。しかし、人間と同じように、犬はそれを本能的に怖がります。犬は数週間訓練を受け、主人のひと声で空中に飛び出せるほど、主人を信頼することを学びました。

豆はいらん

夕食の席でグリーンピースの大皿を回すと、幼かった息子は、「いらん!」とぶっきらぼうに言いました。私たち夫婦は息子に「結構です」と言って欲しかったので、「『いらん』じゃないでしょ?」と言い、マナーを身につけるのは大切だという話をしました。実際、私たちの家庭は、こういう話し合いを大切にしてきました。

園にて

私の先祖は開拓農家でした。土地を切り開いて種をまき、そこで育てた作物で家族を養いました。我が家には、そんな農家の気質が受け継がれています。農家に生まれ育った父は、庭づくりを好みました。私もガーデニングが大好きです。草花を育て、かぐわしい香りも添えて庭を華やがせてくれるバラの世話をするのは、実に楽しいものです。雑草さえ生えなければ、言うことは何もないのですが…。

雑草と格闘するときはいつも、エデンの園のことを思い出します。そこはアダムとエバが神に逆らうまでは完璧な園でした。しかしそれ以来、いばらととげはアダムとエバ、そして庭の世話をしようとする彼らの子孫を悩ますようになりました(創3:17-18)。

さて、聖書に登場するもう一つの園は、ゲツセマネの園です。キリストはそこで苦しまれました。エデンで生まれた罪の因果を何とかする別の方法をくださいと、もだえながら父なる神に懇願されました。しかし結局は、「どうぞみこころのとおりをなさってください」と激しい苦痛を感じながらも、父なる神に自らを委ねられました(マタ26:42)。そのおかげで、私たちは今日、神のおどろくばかりの恵みを受けています。

私たちの罪を雑草を引き抜くように処理してくださる主に、どうか自分の身を委ねることができますように。

健康診断

年に一度の健康診断がやってきました。体調もよく、健康上の問題はこれといってないのですが、定期的に検診を受けることは大切だと分かっています。自覚症状のない病気が隠れていたりするなら、後々大変なことになるかもしれないからです。医者に診察してもらい、隠れた問題を発見して、その治療をしてもらうことは長く健康であることにつながります。

遠い丘の上で

子どもたちが小さかった頃のことを、最近よく思い出します。懐かしい思い出は、毎朝、彼らを起こしていたことです。部屋に入り、一人ひとりの名前を優しく呼んで、起きて身支度をする時間ですよと告げるのです。

知恵を求める人

大学では、勉学を終えて学位を修得した学生のために、毎年、卒業式を行います。卒業証書を受け取って壇上を降りる卒業生を待っているのは、生易しい社会ではありません。学問だけでは不十分です。人生の成功は、学んだことを賢く適用できるか否かにかかっています。

神へのアクセス

私たちは技術の恩恵をこうむっています。例えば、病気や薬について知りたいことがあれば、インターネットを検索するだけで瞬時に情報が得られます。友人と連絡が取りたいときは、メールを送るかSNSに投稿すればOKです。しかし一方で、この技術のせいでうまくいかないこともあります。この前、自分の銀行口座にアクセスしようとしたところ、本人確認のためにいくつもの質問に答えなければなりませんでした。そして正確な答えが思い出せなかったので、ブロックされてしまいました。携帯電話の電池が無くなって、話の途中で切れてしまうこともたびたびあります。充電しなければ、話を続けられません。

かぐわしい生き方

神さまが嗅覚を与えてくださったおかげで、私たちは色々な香りを楽しむことができます。朝には、歯磨き粉のフレッシュな香りがあります。梅のほのかな匂いは、春を実感させてくれます。バラの季節には、公園のベンチに座って花と香りを満喫します。おいしそうな料理の匂いもたまりません。

ただ信頼する

むかし、幼い息子たちを医者に連れていくのは、ちょっとした体験でした。待合室にはおもちゃがいっぱいあって、子どもが遊べるようになっていました。また子ども用の本もたくさんあって、読んでやることもできました。ですから、そこまでは大丈夫です。しかし、診察室に行こうと子どもを抱き上げた途端、事態は急変します。看護師が注射器を持って近づいてくると、それまでの楽しさは恐ろしさに変貌します。看護師がそばに来ると、子どもは私の首にぎゅっとしがみつきました。助けを求めてしがみつくのは、注射が自分のためになると知らなかったからです。