見た目以上に
馬上から投げ縄をするロデオ競技を観戦すると、片手が4本指で、親指の場所がこぶのようになっている選手を見かけます。これはロデオではよくあるけがの結果です。親指にロープが巻きついた状態である程度の大きさの牛に引っぱられると、親指を失ってしまうのです。選手生命が奪われるほどではありませんが、親指を失うと生活が変わります。親指を使わずに、歯磨きや、シャツのボタンを留めたり、髪をとかしたり、靴の紐を結んだり、食べたりしてみてください。親指が重要な役割を果たしていると分かります。
私たちはちり
混雑したショッピングモールで幼い子どもが「アイスクリーム、アイスクリーム」と叫び続け、その大騒ぎを近くの買い物客が注目し始めました。父親が「分かった。でも、まずママのためにお使いをしよう。いいね」と言うと、「いやだー!アイスクリーム!」若い父親は、限界に近づいていました。そこに、小柄な女性がやってきました。靴とバッグがマッチした身なりの良い女性でした。父親が 「かんしゃくを起こして…」と言うと、その人は微笑み「かんしゃくに捕まっちゃったのね。でも、まだ小さいから。忍耐して、目を離さないでね」と応じました。状況を劇的には変えませんでしたが、父子にはこの種の間が必要でした。
豊かな人生
第一次世界大戦末期の1918年、写真家のエリック・エンストロムは作品集の準備をしていました。彼は、虚無感漂う世相の中、人生の豊かさを伝える作品を加えたいと思いました。それが、彼の代表作となった、食卓で両手を組み、こうべを垂れて祈るひげの老人の写真です。本とメガネ、粥のお椀、ナイフ、一斤のパンがあるだけです。
賛美の生活
作家ウォーレス・ステグナーは、50歳で亡くなった母親に宛てた手記を記しました。彼は、すでに80歳で、その手記は「遅すぎた手紙」と題されました。彼の母は、西部開拓時代直後の荒っぽい社会で成長し、結婚してふたりの息子を生み、育て上げました。ステグナーは、その母の徳の高さをたたえています。彼女は人をよく励ましました。素行が良いとは言えない人に対してさえ、そうしました。彼は、母の歌声が、彼女の強さを表していたと言います。ステグナーは「あなたは賛美する機会を決して逃しませんでした」と母に語りかけます。彼女は生涯、事の大小にかかわらず、神の恵みを歌で賛美しつづけました。
与え主を忘れるな
子どもたちに感謝の気持ちが希薄なことを思いあぐねていた母親がいました。今の時代、それも仕方がないかもしれないと思いつつも、子どもたちの心を育てたいと願いました。それで、赤いリボンに 「これが神さまの贈り物だということを見落とさないでね。神さまは私たち家族にとても良くしてくれます。それを忘れないようにしようね」と手書きで記し、家中の色々なものにつけました。冷蔵庫や戸棚の扉、洗濯機や乾燥機、水道の蛇口や照明のスイッチにもつけました。
神の特別な宝物
王座のある広い部屋を想像してください。偉大な王が玉座につき、周囲には多くのしもべたちがうやうやしく仕えています。王の足元に箱があります。王は時々その中に手を入れ中身を触ります。それは、金や宝飾品、宝石の原石など、王がお気に召す品々、つまり王の宝です。思い描けましたか。
落ち着いた生活をする
子ども時代に「大きくなったら何になりたい?」と聞かれたことがあるでしょう。大人にさえ質問するかもしれません。好奇心から聞くのですが、その答えで野心的かどうかを計られることが少なくありません。私の場合はカウボーイから始まって、トラックの運転手、軍人と変わり、大学では医者を志しました。「落ち着いた生活」を目指したことは別段ありません。ところが使徒パウロは、テサロニケの教会の人々にそれが大切だと説きました。
自分の武器を信じて
若い頃、文章セミナーに行くと萎縮してしまいました。周りの人は、正式な訓練を受けたり、長い経験があったり。私には、そのどちらもありません。私にあるのは、欽定訳聖書を読んで培った表現やトーン、リズムです。自分の「武器」とでも言いましょうか。それを使って、自分の文体や意見を表していくことが私の喜びであり、読者にも喜んでもらいたいと願ってきました。
最終決定
学生の頃、好きな人がいました。サラリンという名で、笑顔が素敵な人でした。しかし、気持ちを打ち明けることなく、それぞれの道に進み、やがて疎遠になりました。よくあることです。