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寄稿一覧 Karen Huang ( ゲスト寄稿者 )

私の神はすぐそばに

ルーデスはマニラのボイストレーナーです。授業は30年以上対面だったので、オンラインに移行すると言われて心配でした。「私はメカには弱いし、うちのパソコンは古い。ビデオ会議のソフトのこともあまり知らない……」。大儀ない人もいるでしょうが、彼女には大問題でした。「一人暮らしの私には、そばで助けてくれる人もいない。収入が必要なのに、やめる生徒がいるかもしれない」と不安でした。

神はあなたを忘れない

私は子どもの頃、切手を集めていました。祖父はそれを知ると毎日、職場に届く郵便物の切手を取っておいてくれました。そして家に行くと、様々な美しい切手でいっぱいの封筒を渡してくれました。ある時「どんなに忙しくても、お前のことは忘れないよ」と言いました。祖父はシャイで愛情を表立って表しませんが、私は深く愛されていると感じていました。

神を信頼する

緊急に2種類の薬が必要でした。母のアレルギーの薬と姪の湿疹の薬です。2人の症状は悪化しているのに、薬局にはどちらもありません。私は途方に暮れ、ただ必死に「主よ、助けてください」と何度も祈りました。数週間後、2人の症状は落ち着いてきました。まるで神が「わたしは薬を使うときもあるが、薬が病気を癒やすわけではない。病気を癒やすのは神だ。薬ではなく、神に頼りなさい」と言われているようでした。

イエスにすがる

オフィスビルの吹き抜けの階段で突然めまいがしました。階段がぐるぐる回り、動悸(どうき)がして足がすくみました。必死で手すりにすがりつきました。貧血症と診断され、今は完治しましたが、あの日の辛さを忘れられません。ですから、イエスに触れた女性はすごいと思います。彼女は弱った身体を引きずって群衆をかき分けただけでなく、信仰で勇気を奮い起こし、イエスに近づいたのです(マタ9:20-22)。彼女が恐れるのは当然でした。彼女の状態は律法ではけがれとされ、そのけがれを他者に移すなら、厳しく裁かれる可能性がありました(レビ15:25-27)。しかし、「この方の衣に触れさえすれば」という思いが、彼女を前に進ませました。21節で「触れる」と訳されたギリシャ語は、単なる接触ではなく「しがみつく」または「密着させる」という強い意味を含んでいます。彼女はイエスにすがりました。このお方なら癒やせると信じていたのです。

神は信頼できるお方

我が家の猫のミッキーが目の病気になり、毎日、目薬をさしました。浴室の台に乗せると座っておびえた目で私を見つめ、ブシュッと飛び込む液体に身を堅くします。私は「いい子ね」とささやきます。病気や薬などということは理解できませんが、ミッキーは、飛び降りたり、威嚇したり、引っかいたりしません。むしろ、この試練を与えている私に寄りかかってくるのです。私を信頼できると知っているからです。

希望の錨

段ボールを掛けて道で寝ている人たちの写真を見せて、教会学校の生徒に尋ねました。「この人たちに必要なものは何?」食べ物、お金、安全な場所、という答えの後で、「希望」と大きな声で言った子がいました。そして、希望とは良いことが起こると期待することだと説明してくれました。

手放す

本屋の店員のキースは、店主が2日間、休みを取って不安でした。店は順調でしたが、キースは、きちんと留守番ができるか心配でした。それで、あれもこれもと、全ての業務を神経質に細かく確認しました。ついに店主は「やめなさい」とビデオ通話で言いました。「君がやるべきことは、毎日のメールの指示に従うことだけだ。心配するな、キース。店の責任は私にある。君にではない」

疲れているとき

定時が過ぎた静かな社内でパソコンの前に座っていました。仕事が終わって気分爽快のはずが、ぐったり疲れていました。仕事の問題や人間関係のことで身体が硬くなり、肩も凝っています。その晩は気分転換にテレビでも見ようと思いました。

生きる目的

妻を亡くし、隠居の身。子どもたちは巣立ち、家庭を持って忙しくしている。静かにぼんやりと日々をやり過ごしている。「もう十分に生きた。これといった目的もない。いつ天に召されてもいい」。ハロルドは娘にそう話していました。