寄稿者

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寄稿一覧 Katara Patton (ゲスト寄稿者)

信じて共に働く

テレビから「どんな状況下でも、自分にあるものを最大限に活用すべきです」と語る若い女性の声がしました。気になって耳を傾けると、彼女は6人姉妹の一人で、大学の看護学部を卒業しました。一時はホームレスになるという苦境を通りましたが、姉妹で切磋琢磨(せっさたくま)し、6人全員が地元の大学の看護学部を卒業しました。

神にお任せする

スマホを使ってチェックインしようと、空港の自動受付機に近づいて気付きました。スマホがありません。タクシーに置き忘れたのです。どうすれば該当の車の運転手に連絡が取れるでしょう。

神に戻る道

駐車場の急なスロープを下っていくと不安になりました。ここは迷路のような駐車場で、以前、迷子になったことがあります。しかし、車を降りて、ある方向に歩き始めると、「大丈夫!」と、落ち着くことができました。正しいドアに行きつき、それを開けると目的の場所に行くエレベーターを見つけました。そして無事に到着しました。

神を信じて人助け

親友のサリーは友人の誕生日を祝ってあげたいと思いました。友人が今、苦境のただ中にいると知っていたので、元気づけてあげたかったのです。けれども、サリー自身も失業中で、誕生会用のごちそうを買うお金はありません。そこで、冷蔵庫や戸棚にある買い置きのものを使って、何品もの料理を作りました。

祖母の最後の夜

日曜礼拝に着ていく服を一式そろえて寝る、というのが、土曜日の夜の祖母の習慣でした。早朝礼拝に出席していたので、すぐに出かけられるように準備していたのです。しかし、ある土曜日の夜、彼女は急病で入院し、そのまま天に召されました。祖父が病院から戻ると、祖母がそろえた服がありました。教会に行く準備も、神に会う準備も完了していたのです。

曾祖母の祈り

久しぶりに家族が集まった時、母は自分が記した文章を見せてくれました。それは彼女の祖母スーザンをたたえる内容でした。「おばあちゃん」は、母の話に度々登場します。スーザンは「夜明け前」に起きて一家のために祈っていました。その鮮明な思い出は、母の生き方に大きな影響を与えました。また今日、彼女に会ったことのない私の心さえも支えています。

支援の手

黒人や移民が、カリフォルニア州のコロナドで不動産を借りたり購入したりすることは、1900年代初頭、法律で禁止されていました。奴隷出身の黒人男性のガス・トンプソンは、その差別的な法律ができる前に土地を買い、下宿屋を営んでいました。1939年、ガスはアジア系の家族にその家を貸し、最終的には、その土地を彼らに売りました。約85年後、そのアジア系の家族は、その地を売却し、その大部分をサンディエゴ州立大学の黒人学生センターに寄付し、ガスと妻エマの名前を冠するように働きかけました。

信仰によるもてなし

公民権運動が活発だった頃、ニューオーリンズの有名な料理人リア•チェイスは、自分にできることを精一杯しました。全ての人々に平等な権利を、と行進する人々に食事を振る舞ったのです。彼女は語ります。「私は食事を提供しただけです。彼らは何かのために闘っていました。外に出れば何が起こるか、路上で何が降りかかるか分かりません。けれども、ここに来たら食事が用意されている。彼らはそれを知っていました。それが私にできることでした」

簡単にムカつかない

数カ月間の感染症対策の後、対面での礼拝が再開され、私は教会の人たちに久しぶりに会えると楽しみでした。しかし一部の人々、特に年配の人たちは、安全上の理由で欠席したり、すでにこの世を去っていたりで、会えません。ですから、ある年配の夫婦が礼拝堂のいつもの席に座っているのを見つけた時、とてもうれしくなりました。私は二人に手を振りました。夫は手を挙げましたが、妻は仏頂面で見つめているだけでした。私は少しムッとして、なぜだろうといぶかりました。