キリストに仕える
ある友人が、「仕事は事務だと言うと、見下したような顔をされたりもするけれど、誰の下で働いているかが分かると、驚いて、羨望のまなざしを向けられるのよ」と言いました。つまり、職業には上下があるけれども、その仕事で資産家や有名人とつながっているならば、話は別だと世の人は考えているようです。
泣き笑い
昨年、修養会で久しぶりに昔の友人たちと会いました。再会を喜んで笑って過ごしましたが、同時に涙することもありました。心から恋しいと思っていたからです。最後の日は聖餐を共にしましたが、泣き笑いの聖餐式でした。私は、永遠のいのちをくださり、友人たちと楽しい時間を過ごさせてくださった神の恵みを喜びました。一方で、私の罪を贖うために多大な代償が払われたという厳粛な事実を前にして、涙がこぼれました。
どうして私が
ルツは外国人で、夫と死に別れ、貧乏でした。今日ならば、世界のほとんどの場所で、将来に希望の持てない、世間に無視されてしまう人かもしれません。
光を解き放つ
ある少女は「聖人」とはどのような人だろうと考えていましたが、ある日、母親と一緒に荘厳な大聖堂に行きました。そして、数々の聖書の場面を描いた美しく豪華なステンドグラスを見てこう言ったのです。「分かったわ。聖人とは光を解き放つ人たちね。」
美しく描く神
ネサワルコヨトル(1402-1472)は、ヨーロッパ人の到来前、メキシコの一地方を治めていました。彼の名は「飢えたコヨーテ」という意味ですが、これには深い含みがあります。彼が書いた詩に、霊的な飢え渇きが表されているからです。「私が礼拝する神々は石の偶像だ。話しもせず感じもしない…。大きな力を持った知られざる神がおられ、そのお方は宇宙の造り主だ。このお方だけが苦しむ私を慰め、悩む私を助けることができる。このお方に私の助け主、守り主になっていただきたいものだ。」
豊かな供給
私たちは庭にハチドリ用のえさ入れを置いて、小さな鳥が来て砂糖水を飲む様子を楽しんでいます。ところが最近、中身を補充するのを忘れて旅行に出てしまいました。帰って来たら、えさ入れはすっかり乾いています。私は、「かわいそうに。私が忘れたせいで、鳥たちは栄養を取りそこねた」と思いました。しかしすぐに、鳥を養っているのは私ではなく、神だと気づきました。
いのちの血
マリーアンは神と御子イエスを信じていましたが、なぜイエスが世の救いのために血を流さなければならなかったかが分かりませんでした。聖書は「律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる」と語ります(ヘブ9:22)。しかし、血できよめるなど、マリーアンにすれば気持ち悪いだけでした。
そんなある日、彼女は病院に緊急搬送されました。遺伝子疾患によって免疫システムが侵され、血液が攻撃されていると診断されました。マリーアンは救命室の中で、「血を失えば私は死ぬ。でも、イエスが血を流されたから私は生きていける」と思いました。すべてが腑に落ちました。血はいのちであること、神と和解するには聖なるいのちが必要だったと分かりました。彼女は痛みを感じながらも、平安に満たされました。
現在、マリーアンはすっかり回復して、自分の健康とイエスの犠牲を感謝しています。
ヘブル人への手紙9章は、旧約時代の血の儀式の意味と(16-22節)動物のいけにえを終わらせた、イエスの一回限りの犠牲(23-26節)について説明します。イエスは、自ら進んで私たちの罪を担い、血を流し、いけにえとなって死なれました。それで今、私たちは大胆に神の御前に出て行けます。私たちの身代わりになってくださったイエスに、どれほど感謝しても感謝し尽くすことはできません。
電話の前に
私は幼い子どもを育てているので、パニックになることがあります。そんな時は、まず母に電話をして、息子のアレルギー症状や娘の急な咳などについて、助けてもらいます。
成長を願う
ウーパールーパーは、メキシコ山地の湖沼に生息するサンショウウオの一種で、絶滅危惧種です。ウーパールーパーは生涯オタマジャクシのような幼生の姿で、成体型になりません。そこで、作家や哲学者は、成長するのを恐れる人を「ウーパールーパー」と表現します。