視点を変えて
私たちの町は30年ぶりの厳しい冬を過ごしました。連日の雪かきで筋肉痛になり、いくらかいても減らない雪にうんざりしました。しかし、一段落して長靴を脱ぎ、家に入ると、暖かな暖炉とそれを囲む子どもたちがいます。安全な家の中から窓の外の景色を眺めると、視点も気分も変わり、かき残した雪にいら立つのではなく、美しいモノトーンの雪景色を楽しむことができました。
歌いましょう
私が13歳で通っていた学校には、家庭科、美術、合唱、木工細工という選択科目があり、私は合唱を選びました。初めの授業はパート分けで、先生が一人ひとりの生徒を呼んで声を聞き、音域ごとのグループに分けました。私は番が来ると、指定された音で何度も声を出しましたが、先生はグループを指定せず、履修相談に行って別の教科を取るように言いました。そのときから私は、自分は歌ってはいけないと考えるようになりました。
自分が聞きたいこと
人は、自分の考えを支持する情報を求めがちです。ある研究によると、私たちは自分に都合のよい情報を、そうでない情報の2倍も集める傾向があるそうです。自分の考えに固執していると、それに疑問を投げかける意見を避けてしまいます。
「しかし」という信仰
悲観的な性分なので、ついつい否定的な結果を想像しがちです。ひとつの仕事につまずくと、他の仕事も失敗するような気がします。そして、柔軟体操をしていても、いつまでも身体は固いままだろうとか、事もあろうに、自分は何ひとつできないひどい母親だなど、全く無関係なことにまで論理の飛躍が生じます。ある分野の失敗が、多くの分野の感情を無意味に左右してしまいます。
直接の指示
下の娘のブレッタは、姉の部屋にある「大きな子のベッド」で寝ようと意気込んでいました。私は彼女に布団をかけながらベッドから抜け出したらベビーベッドに戻すよと警告しました。しかし毎晩、彼女を廊下で見つけては、ベビーベッドに連れていかなければなりませんでした。ところが後年、真相が判明しました。いつもは優しい姉娘が、妹と一緒に寝るのが嫌で、毎晩「ママが呼んでいる」と妹に告げていたのです。ブレッタは姉を信じて私を探しに行き、ベビーベッドに寝かされていたのでした。
さばきに勝るあわれみ
口げんかしていた子どもたちが、相手のことを告げ口にやってきました。私はひとりずつ個別に、それぞれの言い分を聞きました。どちらにも悪いところがあったので、公平なさばきは何かと尋ねました。すると、どちらも即、罰を与えるべきだと提案しました。そこで私は、その公平なさばきを、言った本人に与えることにしたのです。すると子どもたちは不公平だと文句を言いました。相手をさばく公平な物差しと言っていたのに、それで自分がさばかれると、この様です。
先遣隊
友人は1600キロメートルも離れた町に移り住むことになりました。青森から下関に移るようなものです。そこで、夫が新居を探す、妻が引っ越しの支度をする、と夫婦で役割を分担することにしました。私は友人に、住む土地や家の下見にも行かずに引っ越して大丈夫なの、と尋ねました。すると彼女は葛藤が無い訳ではないけれど、何年もいっしょに暮らしていて、自分の好みや必要に夫が配慮してくれると分かっているので信頼していると言いました。
内側が知りたい
友人のエミリーが「中身を見たい?」と尋ねました。彼女の娘が抱いている古いぬいぐるみを誉めた時のことです。とても興味があったので見たいと即答しました。彼女は人形の頭を下に向けて背中のファスナーを下げると、中から宝物を取り出しました。それはエミリーが子どもの頃から20年以上大切にしてきたぬいぐるみでした。外側の人形は単なるカバーでした。内側にある宝物の人形が、芯となり形を整えていました。
再出発
クリスマスが終わって年末が近づくと、新しい年について考えます。子どもたちが冬休みに入って生活のペースがゆっくりしてくると、その年に起こったこと、来年の目標について思い巡らします。自分の失敗を思い出し、心が痛んだり、後悔したりもします。しかし、新しい年を迎えると思うと、やはり期待に胸が膨らみます。去年はどうであれ、再出発のときだと感じるからです。