寄稿者

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Kirsten Holmberg

Kirsten Holmberg

カーステン・ホルムバーグ氏は、西海岸北西部在住の講演家、執筆家、講師です。Advent with the Word: Approaching Christmas Through the Inspired Language of God の著者で、バイブルスタディのテキストも手掛けています。教会、ビジネス、コミュニティイベントの講演では、みことばからイエスの愛を知り、イエスに近づくよう人々を励まします。詳しくは、www.kirstenholmberg.comをご覧ください。(サイトは英語のみ)

寄稿一覧 Kirsten Holmberg

はるかにまさる

私の誕生日は、母の誕生日の翌日です。10代の頃、小遣いで買えるプレゼントを探すのに苦労しましたが、母はいつも喜んでくれました。そして翌日、母がプレゼントをくれるのですが、それはいつも、私のプレゼントよりずっと良いものでした。それは当てこすりではありません。母は自分のお金を惜しみなく使って、私に贈り物をくれました。母のお金は、私の小遣いよりずっと沢山あったのです。

十分

家庭を解放して聖書の学びを導かないかと言われた時、無理だと思いました。我が家は狭くて、全員が座れるだけの椅子もありません。私たち夫婦にディスカッションが導けるでしょうか。料理は苦手でお金もないので、期待されると困ります。家庭集会のホストに必要なものが、私たちに備わっているとは思えませんでした。しかし、神と地域の人々に仕えたいとは考えていたので、不安ながらも承知しました。それ以来5年間、我が家の居間に聖書を学ぶ人たちを迎えるのは、大きな喜びとなりました。

空っぽが一杯に

子ども向けの人気本に、帽子を脱いで王様に礼をした貧しい少年バーソロミューの話があります。彼は何度も帽子を脱ぎますが、そのたびに別の帽子が頭に現れ、王様を怒らせてしまいます。彼は処罰のために連行され、その途中も帽子を脱ぎつづけますが、そのたびに別の帽子が現れます。その上、帽子はだんだん上等になり、最後には、高価な宝石や羽飾りまでつきました。すると、500個目の帽子を王様が気に入りました。バーソロミューは赦され、帽子を金貨500枚で王様に譲りました。ついに少年の頭から帽子は無くなり、彼は家族を養うお金を持って家に帰りました。

神にささげる

私がまだ10代で大きな困難やハイリスクな決断を迫られて混乱していたとき、物事を書き出して整理して考えることを教えてくれたのは母でした。どの授業を取るべきか、どんな職業に就くべきか、大人の現実の怖さにどう立ち向かうのか…。母はどうすべきか迷うと、分かっている事実、自分に出来る行動、予想し得る結果を書き出していました。私もそれに倣って、思いの丈をノートに書き綴ると、問題から一歩離れて、感情に流されず客観的に物事を見られるようになりました。

熱心に捜す

娘が高校のクロスカントリー部に所属しているので、毎週土曜日には家族で沿道に立って応援します。選手たちはゴールするとチームメイトやコーチ、親たちといっしょになろうと歩き出しますが、多くの場合、300人以上がごちゃごちゃと行きかうので、その中からひとりを見つけるのは大変です。しかし、私たちは応援に来た唯一の選手、我が最愛の娘を抱きしめてあげたくて、群衆をかき分け、夢中になって彼女を捜します。

ライフセーバー

私はライフセーバーとして、事故の兆候は無いかと水の上を監視していました。担当の6時間、水泳をしている人たちの安全を確保するために、プールサイドからずっと見張っています。その場を離れたり、注意を怠ったりすると、重大な事故を招くかもしれません。泳いでいる人が、何かの理由で溺れかけたら、水から引き上げてプールサイドで休ませることが私の仕事なのです。

まず愛する

養子に迎えた息子が私たちとの生活に慣れ、心の傷も癒されて欲しいと忍耐強く接してきました。しかし、幼児虐待の傷は問題行動となって表れました。彼の過去に心から同情しつつも、私は彼から気持ちが離れて行きそうでした。自責の念に駆られながらカウンセラーに相談すると、「まず、あなたが愛してください。自分は愛を受けるにふさわしいと分からせてあげれば、彼の行動は変わってきます」と言われ、心を打たれました。

テーブルロック

大きな光る十字架が「テーブルロック」と言う堅い岩盤の台地から、私たちの町を見下ろしています。その岩の隣に数軒の家が建っています。最近になって安全性を理由にこの住民たちは立ち退きを命じられました。強固な岩盤の「テーブルロック」の隣に建っているのに、これらの家の土台は日ごとにせり上がっていると言います。いずれは水道管が破裂して、地滑りを起こす危険があるとのことでした。

光の無い道

休暇からの帰り道、オレゴン州中部の荒野を通りました。夕暮れどきの2時間余り、私たち家族の車は深い渓谷を抜け砂漠の尾根道を走りました。その間、すれ違う車は20台も無かったでしょう。やがて月が登りましたが、山の峰があるので見えたり見えなかったりします。娘は「神のご臨在と同じね」と言いました。私は「神がおられると見えなくてはいけない?」と尋ねました。すると彼女は「そんなことはないわ。でも見えたら確実に助かるわ」と答えました。