完全に理解する
映画「メリーポピンズ・リターンズ」で主役を演じたエミリー・ブラントは美声の持ち主ですが、彼女の夫がそのことに気付いたのは、何と結婚生活4年目のことでした。初めて妻の歌を聞いた時は驚いて、この美声について、いつ知らせてくれるつもりだったのだろうと思ったそうです。
本に喜びを見つける
積読(つんどく)という日本語を聞いたとき、私にぴったりだと思いました。それは読もうと思っている本が山となることです。本は何かを教えたり、別の時代や場所に連れて行ってくれたりします。本には知恵や喜びが詰まっていて、積読は減りそうにありません。
決してひとりではない
サッカーの2018年ワールドカップで、コロンビアのファルカオ選手は、対ポーランド戦の後半25分でゴールし、勝利を確実にしました。このゴールで、彼はコロンビア代表の歴代得点王になりました。国際試合通算の30得点目のゴールです。
決して忘れない
ピアノを頑張ったことを証明して欲しいと子どもたちにせがまれ、ハ長調で弾いてみて驚きました。もう20年近く、ほとんどピアノにさわっていないのに指が動きます。音階を変えて次々に弾いてみても完璧に弾けます。長年の練習で指に記憶が刻み込まれていたのです。
これが私
ミュージカル映画「グレイテスト・ショーマン」の劇中歌「ディス・イズ・ミー」(これが私)は迫力ある歌です。これを歌う人物は、社会の「普通」から外れていたために、言葉の暴力やいじめに苦しみました。彼女は、言葉は心を傷つける弾丸やナイフのようだと歌います。この歌の人気は、どれほど多くの人が、言葉という武器で心を傷つけられたかを示唆しています。
ヤコブは、言葉の潜在的な危険性を理解し、それは「少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています」(ヤコ3:8)と語りました。驚くような強い表現ですが、言葉の持つ危険な力に早く気づくべきだと考えて、このように述べたのでしょう。また、神をほめたたえたその口で、次の瞬間には、神にかたどって造られた人を傷つけるという矛盾も指摘しています(9-10節)。
前述の「ディス・イズ・ミー」も言葉の暴力を非難し、私たちはみな素晴らしいと訴えます。聖書も各々に尊厳と美があると語ります。それは姿かたちや、何ができるかではありません。一人ひとりが神の傑作だからです(詩139:14)。私たちの互いに対する言葉は、その真理を明らかにする力があります。
わざわいを恐れません
アーカンソー州リトルロックのセントラル中高等学校は、白人の子どもだけの学校でしたが、1957年、9人のアフリカ系アメリカ人を入学させました。彼らは「リトル・ロック・ナイン」と呼ばれ、メルバ・パティロ・ビールズは、そのひとりでした。ビールズの回顧録「私は恐れない:炎の中で信仰を築く」は、2018年に出版され、15歳のビールズが毎日直面した胸を引き裂くほどの不平等と嫌がらせを赤裸々につづっています。
また、彼女の深い信仰にも触れています。恐怖に打ちのめされそうな闇の世界で、ビールズは幼い頃に祖母に教わった聖書のみことばを暗唱しました。みことばを何度も声に出してくり返すと、神の臨在を感じて勇気づけられました。
彼女はしばしば、詩篇23篇4節「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」を声に出して、主の慰めを得ました。「神はあなたにぴったりくっついておられるから、助けてと言うだけでいいのよ」と励ましてくれた祖母の言葉も、思い出していたでしょう。
具体的な状況は違っても、私たちは不安に押しつぶされそうなときがあります。そのような時は、神の力強いご臨在が常にあるという真理に励まされますように。
仕える人の心
料理、イベント企画、栄養管理、看護。これは、最近の母親が担う役割の一部です。2016年の調査によると、母親が子育てに費やす時間は週に59時間から96時間とのこと。道理でいつも疲れているわけです。母親になるとは、生きることを学びつつある我が子の世話に、多くの時間と労力をささげることを意味しています。
一日が長く感じられ、人の世話は価値ある仕事だと再確認したいとき、イエスが仕える人を高く評価されたのを見ると勇気をもらえます。
マルコの福音書は、弟子たちは誰が一番偉いかと口論したと語ります。そのときイエスは静かに座って「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」(9:35)と語られました。そして、ひとりの子どもを抱き寄せると、自分以外の人、特に最も弱い人に仕える大切さを語られました(36-37節)。この答えは、神の御国で最も偉大なものに関する考えをリセットしました。神の基準は、人の世話をする意志があるかどうかです。そして、人の世話を選んだ人たちには、神のご臨在による励ましが約束されています(37節)。
家族や地域に仕えているなら忘れないでください。イエスは人のために割いた時間と労力を大いに評価されます。
凱旋パレード
メジャーリーグのシカゴ・カブスが2016年、108年ぶりにワールド・シリーズを制し、優勝パレードには500万人が詰めかけて勝利を祝いました。
戦勝パレードは古くから行われています。有名な古代ローマの凱旋パレードでは、将軍たちが味方の軍隊と捕虜たちを引き連れて行進しました。
使徒パウロが「キリストによる勝利の行列に加え」(Ⅱコリ2:14)と手紙に記したとき、彼はこのような行進をイメージしたのでしょう。ここで、キリストに従う者が捕らわれ人となっているのは興味深いことです(英語聖書NIVおよび文語訳聖書参照)。しかし、キリスト者は、よみがえられたキリストの勝利の行進に進んで参加します。そして、主が勝利によって王国を建設され、「ハデスの門も…打ち勝て」ないことを喜び祝います(マタ16:18)。
イエスが十字架で勝利され、その勝利が信じる人々に自由を与えると語るとき、私たちはキリストを知る知識のかおりをいたるところで放っています(Ⅱコリ2:14)。それが、他の人に救いの喜びを感じさせる甘いかおりであれ、敗北のみじめさを感じさせる悪臭であれ、このかおりは、私たちについてどこにでも行きます。
私たちはイエスに従うことで、イエスの復活の勝利、すなわち世界を救った勝利を宣言しています。
ピンを並べる
友人のエリンが足首にタトゥーを入れました。ボウリングのピンが倒れている絵柄です。彼女は、サラ・グローヴスの「ピンを並べる」という歌から発想したと言いました。ボウリングのピンは、並べても並べても倒されます。この歌は、一見無意味に見える日常の繰り返し作業や雑務の中に喜びを見つけようと、聴く人たちを励ますのです。
洗濯、掃除、皿洗い。私たちの生活には、片づけたと思ったら、始めなければならない繰り返し作業がたくさんあります。この種のイライラは古くからあるもので、伝道者の書にも同様の葛藤が記されています。著者は日々の労苦はすべてが空しいと語り始めます。「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる」(1:9)ので無意味だと語ります。
しかし、彼は私の友人のように、それらのことに喜びと意味を見いだすことができました。神を畏れ敬い、神の命令を守るなら、最終的に人生は満たされると思い至ったのです(12:13)。神は日常のありふれたことにも目を留めてくださり、忠実さに報いてくださるお方だと分かるとほっとします(14節)。
あなたが並べ続けている「ピン」は何ですか。終わりのない仕事に疲れを感じ始めたなら、立ち止まって、そのひとつひとつは神への愛のささげ物だと意識しましょう。