寄稿者

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Marvin Williams

Marvin Williams

マービン・ウィリアムス氏は、2007年に「デイリーブレッド」の寄稿者として加わりました。ウィリアムス氏は、ミシガン州ランシングにあるトリニティ教会の主任教育担当牧師です。妻トニアとの間に3人の子どもがあります。

寄稿一覧 Marvin Williams

救いの泉

地面にドリルで深い穴を掘るといえば、大抵は、岩石標本を採取したり、石油や地下水を採掘するのが目的です。

神を祝おう

ガーナのアサモア・ギャンは、2014年ワールド・カップの対ドイツ戦でゴールし、チームメイトとダンスをしました。その数分後、ドイツのミロスラフ・クローゼは、ゴールを決めて前方宙返りをしました。「ゴールパフォーマンスには大きなアピール力があります。なぜなら、それは選手の情熱や性格、価値観を示しているからです」と語るのは、2002年のワールド・カップでゴールを決めた、アメリカ代表のクリント・マディスです。

悪臭

ペンシルベニア州ピッツバーグにあるフィップス温室植物園で、2013年8月に「死体花」の異名を持つ熱帯植物が開花し、大勢の見物人が訪れました。この花はインドネシア原産で、開花は数年に一度ですが、何ともすごいものです。先のとがった巨大な赤い花は、開花すると腐った肉のような臭いがします。それに引き付けられて、腐った肉を餌にするハエや昆虫がやってきますが、そこには肉も蜜もありません。

神の方位計

第二次世界大戦中のことです。小さな方位計がノース・カロライナの沿岸500キロの沖合で、27人の乗組員を救いました。ワルデマー・セメノフは商船の船員でしたが、退職後、蒸気船アルコア・ガイド号に次席機関士として乗り組みました。その船がドイツの潜水艦の砲撃を受けて炎上し、沈没しました。セメノフ機関士と乗組員は、方位計を装備した数隻の救命艇をおろして乗り移り、方位を計りながら陸地に近い航路帯を目指しました。そして三日後、彼らは救助されました。

言葉の力

南アフリカ共和国のアパルトヘイト体制に反対し、30年近くも投獄されたネルソン・マンデラ氏は、言葉の力を知っていました。今日、マンデラ氏の発言はよく引用されますが、彼が投獄されている間は、波紋を呼ぶことを恐れて、誰もそんなことはしませんでした。解放から10年ほどして、彼は次のように語りました。「私は言葉を軽率に使いません。27年の獄中生活という孤独が人に何かを学ばすとしたら、それは言葉の尊さです。言葉が、人の生き方、そして死に方に、どれほどの影響を与えるか、私は静寂の中でそれを学びました。」

生きて働く神に賛辞を

アメリカの公民権運動の英雄、ローザ・パークスは1955年、バスの座席を白人男性に譲ることを拒否しました。2005年に亡くなったとき、「当時の世相からして、起こるかもしれないことは明白でした。その中で座り続けるのはどれだけ大変だったか。あなたは、自分の身の危険を顧みずに行動し、私たち全員の生活を改善してくれました」と追悼の讃辞が述べられました。

たましいの錨

教員だったエステラ・パイフロムは退職後、バスを購入し、机とパソコンを設置しました。そして「ブリリアント・バス」と命名してフロリダ州のパームビーチ全域を巡回し、貧困家庭の子どもたちが宿題をしたりパソコンを学んだりする場を提供しています。彼女は、家庭環境に恵まれず将来をあきらめてしまいそうな子どもたちに、生きる土台と希望を届けています。

嵐を静める

ハリケーン・カトリーナがミシシッピー州の沿岸に迫ってきたとき、ある引退牧師は夫婦で避難場所に向かいました。アトランタの娘のところに行くように勧められたのですが、銀行が閉まっていて旅費を引き出せなかったのです。やがてハリケーンが去り、自宅に身の回りの品を取りに行くと、家は壊れ、父親の写真の入った写真立てが水に浮いていました。牧師がその写真を乾かそうと取り出したところ、366ドル分の紙幣がいっしょに出てきました。ふたり分のアトランタ行き航空券の代金と同額でした。どんなときでも、イエスに頼ることができると学んだ出来事でした。

神は聞いておられる

アメリカのTV番組が、1982年にビリー・グラハム師にインタビューする前日のことです。宣教団の広報部長だったラリー・ロスは、グラハム師がインタビューの前に祈る個室を用意して欲しいと言いました。しかし、グラハム師が到着すると、彼のアシスタントは個室は必要ないと告げました。彼によると、「グラハム先生は朝起きてすぐ祈り出し、朝食を取りながらも、ここへ来る車中でも祈っていて、おそらくインタビューの最中もずっと祈っている」からだといいます。後日、ロスは「若輩者の自分にとって、あれは大きな教訓になった」と述べています。