寄稿者

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Marvin Williams

Marvin Williams

マービン・ウィリアムス氏は、2007年に「デイリーブレッド」の寄稿者として加わりました。ウィリアムス氏は、ミシガン州ランシングにあるトリニティ教会の主任教育担当牧師です。妻トニアとの間に3人の子どもがあります。

寄稿一覧 Marvin Williams

価値あるものへ

アップル社の共同設立者であるスティーブ・ジョブズは、ガンと闘う中で次のように語りました。「もうすぐ死ぬという意識は、今までに巡り合った何よりも重要なツールだ。人生の大きな決断を助けてくれる。ほとんどすべてのもの、つまり、人の期待、自尊心、恥や失敗に対する恐れなどは、死を前にして剥がれ落ちていき、自分にとって本当に大切なものだけが残る。」彼の苦しみは、彼の選択に用いられました。

使徒ペテロが手紙に書いていることは、それとは対照的です。彼は、今の苦しみは自らの人生に永遠の価値を持たせるために用いなさい、と述べています。イエスの苦しみと死を知って信仰にいのちが吹き込まれ、イエスの御名を信じているがゆえの戦いや迫害を引き受けることができるように願っていたのです。手紙の読者たちはイエスを愛したので、苦しむことが当たり前になっていくでしょう。イエスの苦しみは、罪深い情熱を捨て去って、神のみこころに従順になる動機づけとして用意されていたのです(Ⅰペテ4:1-2)。人生に永遠の価値を持たせるには、はかない楽しみにふけるのをやめ、神を喜ばせることのために、自分の人生を使い果たさなければなりません。

イエスが私の罪を赦すために苦しみ、死なれたことを意識することこそが、今日、敬虔な人生を選択しようと自らを奮い立たせるために重要です。これを意識することこそが、自分の人生に永遠の価値を持たせるために大切なのです。

待ちなさい

サンフランシスコで車の渋滞に巻き込まれた男性が、しびれを切らして隣の車線に移りました。そして、停車している車の列を追い越して行こうとしました。ところが、この車線は工事中で新しいセメントが敷かれたばかりです。男性のポルシェ911は、セメントの泥にはまって動かなくなってしまいました。彼の短気は非常に高くついたのです。

聖書にも、忍耐できなかったために高い代償を払った王の話があります。イスラエルの王サウルは、ペリシテ人との戦いを目前に控えて、神の祝福を得ようと思いました。ところが、いけにえをささげるはずのサムエルが予定どおりに到着しません。サウルは忍耐することができず、しびれを切らせて神の命令に背いてしまいました(Ⅰサム13:8-9、13)。遅れに我慢できない性格が、サウルを自分は律法以上の者だと勘違いさせました。そして、祭司にしか許されていない奉仕を行ったのです。神の教えに従順でなくても何とかなると思ったのかもしれませんが、それは間違いでした。

到着したサムエルは、サウルの不従順を批判し、その罪のために王国を失うだろうと預言しました(13-14節)。サウルは、神のご計画が実現されていくのを忍耐して待つということを拒絶して急ぎ足で行動し、大きな失敗を犯しました(箴19:2参照)。サウルの忍耐の無さは、彼の不信仰を顕著に現していたのです。

神のみこころの実現を忍耐強く待つなら、主がともにいて導いておられることは明らかにされてきます。

行ないによって

ある牧師が夜、教会に向かって歩いていると、銃を持った強盗に襲われました。命が惜しければ金を出せと言われて、財布を差し出そうとポケットに手を入れたとき、強盗は、つめ襟の牧師服に気づいて、「あんた牧師だったのか。だったら金はいらない。行ってくれ」と言いました。牧師は、強盗の思いがけない態度に驚いて、チョコバーを1本差し出しました。すると、「いいや、結構だ。俺は受難節のあいだは、甘い物を絶つことにしている」と言ったのです。

この男は受難節には何かを犠牲にするということで甘い物を絶っていましたが、強盗で暮らしを立てているのですから、それが彼の本性です。神を畏れているとは言えません。

箴言の著者によれば、その人の行いが、その人の人格を計る最も正確な指標です。「自分は神を敬っている」と言うなら、その人の行動がその言葉と一致していなければなりません(箴20:11)。これは、イエスの時代の宗教指導者にも当てはまることでした。イエスは、パリサイ人を非難されました。自分たちの罪を認めようとせず、見せかけの敬虔に終始していることを暴露されたのです(マタ23:13-36)。

人の外見や言葉は、当てになるとは限りません。人格を判断するには、その人の行動を見るのが一番です。この事実は、私たち全てに当てはまります。
主イエスに従う者は、主に対する愛を口先だけではなくて行動によって表します。神が愛してくださったので、私たちは自分を神にささげます。その献身が、今日、私たちの行動を通して明らかになりますように。

健全な言葉

しばらく前、アメリカン・ミュージック・アワード(アメリカ4大音楽賞のひとつ)の授賞式のさなか、あるエミー賞女優が勇敢にも立ち上がり、退場したことがありました。その理由は、式の司会者、賞の贈呈者、またミュージシャンたちが、次から次へと下品でわいせつなコメントや冗談を連発するので、非常に不愉快で失望したためです。その女優は、自尊心と尊厳がわずかでもある人にとって、あのような式に列席させられるのは侮辱以外の何ものでもないと語りました。

下品で不健全な言葉は、使徒パウロの時代においても問題でした。パウロはエペソのクリスチャンに対し、下品なこと、みだらなこと、そしり、恥ずべきことばを取り除くように、と念を押しました(エペ5:8、コロ3:8)。これらは、過去の生活の言葉であり(Ⅰコリ6:9-11)、イエスによって新しい人生が与えられた今の彼らには、ふさわしくないものでした。新しく再生した者の生き方は、健全な言葉によって特徴づけられるべきです。彼らの良質で健全な言葉は、聞く人に恵みを与えます(エペ4:29)。聖霊は、私たちの口を守り、下品なことを言うと叱ってくださり、人の益になる言葉を使えるように助けてくださいます(ヨハ16:7-13)。

私たちは、自分のすべてをもって、神の栄光を映すように召されています。その中には、口から出る言葉も含まれています。私たちの口から出る言葉が、感謝に満ち溢れていますように。そして、他の人に益を与える言葉で満たされていますように。

あなたが必要

オーケストラのリハーサルをしていた指揮者の話があります。オルガンが旋律を美しく奏で、バイオリンが澄んだ音色を響かせました。トランペットが鳴り渡り、ドラムは雷鳴のように響きます。しかし指揮者は、何かが足りないと気づきました。ピッコロです。ピッコロ奏者は集中していなかったので出遅れ、きちんと演奏していないことに気づかれないようにと願っていました。しかし、指揮者はピッコロ奏者に言いました。「一人ひとりが必要なのです。」

これは基本的に、使徒パウロが、コリント人への手紙第一に記したメッセージと同じです(12:4-7)。「キリストのからだ」において、すべてのクリスチャンは重要な役割を担っています。パウロは様々な御霊の賜物を述べ、それらを用いるのは、身体の様々な器官が全体の益のために働くのと同じだと言いました(8-10節)。コリントのクリスチャンは、それぞれに異なった文化的背景、賜物、性格を持っていたでしょうが、同じ御霊に満たされ、同じキリストのからだに属していました。パウロは、身体には弱い器官や目立たない器官があるということにも言及し、その上で、誰かが別の人以上に必要だということではなく、すべてのクリスチャンに役目が与えられていると教えました。

忘れないでください。イエスは、あなたに重要な役目を与えておられます。兄弟姉妹が立て上げられるために、あなたを用いようとなさっています。

私が発明した

カナダ人のウィラードS.ボイル氏は、デジタルカメラやハッブル望遠鏡に組み込まれた電子センサーの共同発明者で、ノーベル物理学賞を受賞しました。あるとき、彼は新しいデジタルカメラを購入しようと、ノバスコシア州ハリファックスの、とあるカメラ店に行きました。カメラ店の販売員はボイル氏にカメラの精密さを説明しようとしましたが、途中でやめてしまいました。

見捨てられない

ある日、カリッサ・スミスは地元の図書館にいました。可愛い声を出し始めた4ヶ月の娘と一緒です。不意に、年配の男性が「赤ん坊を黙らせろ、さもないとわしが黙らせる」とすごんできました。スミスは毅然(きぜん)と答えました。「機嫌のよい赤ちゃんに腹を立てるとは、ご事情があるのかもしれませんね。けれども、私は娘を無理に黙らせようとは思いませんし、あなたにもそうはさせません。」

感謝する

ミシガン州ランシングでは、冬に晴れることはめったにありません。けれども昨年、澄み切った晴天の日がありました。誰もが、神に感謝しているようでした。私が教会を出たとき、ひとりの男性が声をかけてきました。「本当にいい天気ですね。これは神さまの贈り物ですよ。」ところが私は、「でも、今週後半には、また雪が降るそうですよ」と答えたのです。何と否定的で感謝に乏しい発言でしょう。

使徒パウロは数々の手紙の中で、「感謝の神学」を深めるよう促しています。パウロは、新約聖書で感謝について誰よりも多く記しました。彼の手紙に「感謝」という言葉は49回も用いられ、その記述から、感謝について多くのことを学ぶことができます。

パウロの感謝は人にではなく、常に神に向けられています。人々は神からの贈り物であり、その人たちの愛や信仰、そして成長を、パウロは神に感謝しました(Ⅰコリ1:4、Ⅰテサ1:2)。また、すべての感謝は、イエスの御名によってささげられています(コロ3:15、17)。クリスチャンはすべての事について感謝すべきだとパウロは信じていました。神はすべてを支配されるお方であり、クリスチャンの益のために、すべてを取り仕切っておられるからです(Ⅰテサ5:18)。

自分の周りにある神からの贈り物に意識して目を留め、常に感謝しましょう。神が贈り物をくださったのです。「主よ、感謝します」と言うのは当然です。

パニックか祈りか

修道院のエレベーターに、85歳の女性が3日間閉じ込められてしまいました。幸いなことに、彼女は水差しに入った水とセロリ、そして数粒ののど飴を持って いました。彼女は、エレベーターのドアを開けて携帯電話の電波を得ることができないと分かると、神に祈ることにしました。不安の中でも神を信じ、救出され るときを待ちました。彼女は、CNNのインタビューに答えて言いました。「パニックになるか、祈るかの二者択一でした。」

百万人ものクシュ人の軍が攻撃してきたとき、アサ王もパニックか祈りかという選択を迫られました(Ⅱ歴14章)。彼はこの大軍に対して、恐れおのの くことも、自らの戦略に頼ることもしませんでした。彼は、ただ主に向かって、緊急事態の祈りをささげました。「私たちの神、主よ。私たちを助けてくださ い。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります」と祈りました(11節)。アサは主だけが頼りであることを告白し、助けを求め、主の御 名が守られるようにと訴えました。それは心砕かれた者の必死の祈りでした。主はアサの祈りを聞かれ、アサはクシュ人の軍に勝利しました。

困難な状況に見舞われ立ち向かう力もなく、山積する問題に行き詰まったなら、パニックになるのではなく、神に頼りましょう。神はご自分の民のために戦い、勝利されます。