夜の歌
パーキンソン病に心身をむしばまれていく中、父は自分らしく生きることを渇望しました。心の平安を慕い求めながら、うつ症状に苦しめられました。愛を実感できなくて、孤独感にさいなまれることが多々ありました。しかし、大好きな詩篇42篇のみことばを読むと、孤独感が薄れました。
ひどい事も素晴らしい事も
恐れで凍り付くことがあります。過去に傷つけられた経験があり、今回もまた同じことになりそうだと感じるなら、当然恐ろしくなります。そして「私には、うまく対処する知恵も力も勇気もない。絶対にできない」と精神的に追い詰められます。
友のために
エミリー・ブロンテの小説「嵐が丘」には、聖書を使って人を批判する人物が登場します。彼は「いつも聖書をあさって自分に都合のいい言葉をかき集め、まわりの者には呪いをまき散らす」のです。ここで誰かの顔が浮かぶかもしれませんが、私たちも五十歩百歩、自分に甘く人に厳しくしがちではないでしょうか。
一方、聖書には、自己犠牲の人たちが登場します。モーセは、民が赦されないのなら、自らの名を神の書から消して欲しいと言い (出32:32)、使徒パウロは、同胞のためならキリストから引き離されても構わないと語りました(ロマ9:3)。人は元々独善的ですが、聖書が光を当てるのは、自分以上に他人を愛した人です。なぜなら、それがイエスの愛だからです。
イエスは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハ15:13)と言われました。私たちはまだ主を知らなかったにもかかわらず、主は「ご自分の者」を「最後まで愛し通され」(ヨハ13:1口語訳)、いのちを与えるために十字架にかかられました。
このように愛し愛されるために、私たちは神の家族になりました (ヨハ15:9-12)。私たちが人々にキリストの愛を惜しみなく注ぐとき、世界はキリストを垣間見ることができます。
癒しの大水
子どもの頃から雷雨が大好きです。雷鳴がとどろき、大雨が降る時には、兄弟で家の周りを走りまわり、滑ったり、転んだりしました。そして、ずぶ濡れになって家に帰ります。ほんの数分の間、とてつもなく大きな力の中に身を置き、私たちは楽しいのか怖いのかよく分かりませんでした。しかしそれは、なぜか気分がスカッとする体験でした。
完全なる不完全
完成をズルズル引き伸ばす癖のある私に、大学の恩師が「完璧を『良し』の敵にしてはいけない」と忠告してくれました。完璧を求める余り失敗を恐れ、成長に必要なリスクさえ回避しがちになるのは賢明ではありません。自分の作品には常に改善点があることを受け入れるなら、成長しつづける自由を手にします。
混乱の中の祝福
自業自得だから、自分で何とかしなければと思うことがあります。神のあわれみを信じていても、神が助けてくださるのは、私に落度のないときだけだと考えてしまいがちです。しかし、そうでないことは、ヤコブが初めて神と出会ったときの様子から分かります。
ついていくなら
クロスカントリーをしていたとき、先頭ランナーにペースを作ってもらい、その後ろを走れと助言されました。そうすれば、最高の走りに必要な体力と気力を保持することができるからです。
匿名の優しさ
大学を卒業した当初、週25ドルの食費でやりくりしなければなりませんでした。ある日、スーパーのレジで精算している途中、かごの中身は所持金より少し高目かもしれないと気付き「すみません。20ドルに達したらそこで止めてください」と頼みました。ピーマンの小袋を除いて、すべてを買うことができました。そして帰宅しようと車に乗りかけた時、知らない人が「お嬢さん、あなたのピーマンですよ」と小袋をくれると、そよ風のように去って行きました。
生きる意味
家計の見直し方の本を何冊か見て面白い傾向を発見しました。どれにも役立つ助言がありましたが、節約の目的は豊かな未来のためと暗示しています。ところが、1冊だけは違いました。シンプルな生活こそが豊かな生活で、もっと多くを…という姿勢は、生きる意味を見失っていると語ります。