落ち着きなさい
ディズニー映画「ビアンカの大冒険」で、ケガをしたアホウドリのウィ ルバーに医者が「リラックスしましょう」と軽く言いました。すると嫌々やって来た気の立ったウィルバーは「リラックスしていますよ。…これ以上リラックスしたら死んでしまいます」と皮肉を言い、ますます興奮していきます。医者のうさんくさい治療法を見たウィルバーの不安はもっともですが、その光景は滑稽です。本当に危機なのか否かは別として、私たちがうろたえたときの姿を映しています。
いとしいもの
トールキンの三部作「指輪物語」(原題:The Lord of the Rings)に登場するホビットのゴクリは「いとしいしと」と言って力の指輪に対して狂気じみた執着心を示しますが、その姿は、今日の私たちの貪欲、執着、狂気を象徴しています。彼の姿に「人ごとではない」と思わされるのですから、まことに厄介です。ゴクリは、指輪に対する愛と憎しみに苛まれていますが、その声は、私たちの心の内にある飢え渇きの反映とも言えます。
愛と平安
深い悲しみの中にいても、言葉では説明できない平安で心が満たされることに驚かされます(ピリ4:7)。それを父の葬儀で体験しました。弔問客が長い列を作り挨拶して通り過ぎる中、高校時代の友人の顔が見え、ホッとしました。彼は黙ってハグをしてくれました。辛く悲しい一日の中で、心が平安で満たされていくのを感じ、決してひとりではないと元気づけられました。
夜の歌
パーキンソン病に心身をむしばまれていく中、父は自分らしく生きることを渇望しました。心の平安を慕い求めながら、うつ症状に苦しめられました。愛を実感できなくて、孤独感にさいなまれることが多々ありました。しかし、大好きな詩篇42篇のみことばを読むと、孤独感が薄れました。
ひどい事も素晴らしい事も
恐れで凍り付くことがあります。過去に傷つけられた経験があり、今回もまた同じことになりそうだと感じるなら、当然恐ろしくなります。そして「私には、うまく対処する知恵も力も勇気もない。絶対にできない」と精神的に追い詰められます。
友のために
エミリー・ブロンテの小説「嵐が丘」には、聖書を使って人を批判する人物が登場します。彼は「いつも聖書をあさって自分に都合のいい言葉をかき集め、まわりの者には呪いをまき散らす」のです。ここで誰かの顔が浮かぶかもしれませんが、私たちも五十歩百歩、自分に甘く人に厳しくしがちではないでしょうか。
一方、聖書には、自己犠牲の人たちが登場します。モーセは、民が赦されないのなら、自らの名を神の書から消して欲しいと言い (出32:32)、使徒パウロは、同胞のためならキリストから引き離されても構わないと語りました(ロマ9:3)。人は元々独善的ですが、聖書が光を当てるのは、自分以上に他人を愛した人です。なぜなら、それがイエスの愛だからです。
イエスは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハ15:13)と言われました。私たちはまだ主を知らなかったにもかかわらず、主は「ご自分の者」を「最後まで愛し通され」(ヨハ13:1口語訳)、いのちを与えるために十字架にかかられました。
このように愛し愛されるために、私たちは神の家族になりました (ヨハ15:9-12)。私たちが人々にキリストの愛を惜しみなく注ぐとき、世界はキリストを垣間見ることができます。
癒しの大水
子どもの頃から雷雨が大好きです。雷鳴がとどろき、大雨が降る時には、兄弟で家の周りを走りまわり、滑ったり、転んだりしました。そして、ずぶ濡れになって家に帰ります。ほんの数分の間、とてつもなく大きな力の中に身を置き、私たちは楽しいのか怖いのかよく分かりませんでした。しかしそれは、なぜか気分がスカッとする体験でした。
完全なる不完全
完成をズルズル引き伸ばす癖のある私に、大学の恩師が「完璧を『良し』の敵にしてはいけない」と忠告してくれました。完璧を求める余り失敗を恐れ、成長に必要なリスクさえ回避しがちになるのは賢明ではありません。自分の作品には常に改善点があることを受け入れるなら、成長しつづける自由を手にします。
混乱の中の祝福
自業自得だから、自分で何とかしなければと思うことがあります。神のあわれみを信じていても、神が助けてくださるのは、私に落度のないときだけだと考えてしまいがちです。しかし、そうでないことは、ヤコブが初めて神と出会ったときの様子から分かります。