一番嬉しかったプレゼント
聖書のみことば:Ⅰ歴代誌16:8-13
主に感謝して、御名を呼び求めよ。そのみわざを国々の民の中に知らせよ。—Ⅰ歴代誌16:8
修養会で「今までで一番嬉しかったクリスマスプレゼントは何ですか」と質問されると、スポーツマンタイプの男性が、「その答えは簡単だ」と言いました。「僕は大学を卒業したら、プロのフットボール選手にスカウトされると思っていましたが、そうならなくて腐っていました。そして、周りの人たちを傷つけていたのです。それから2年。フットボールを離れてから2度目のクリスマスに、今隣に座っている友人の教会に、クリスマス劇を観に行きました。求道心などありません。姪が出演するので、行ったのです。そのときの気持ちを表現するのは難しいのですが、なぜか、子どもたちの劇の真っ最中に、僕も羊飼いや天使たちと一緒にイエスに会わなければ、と切実に思いました。会衆が『きよしこの夜』を歌い終わった時には、立つこともできず泣いていました。」彼はもう一度、隣の友人をチラリと見て言いました。「彼は、家族を先に帰しました。そして、イエスを心に迎える祈りを導いてくれたのです。あの夜、僕は、最高のクリスマスプレゼントをもらいました。」
このクリスマス、イエスが生まれたという単純で喜ばしい物語から、イエスのことを知りたいという思いが私たちのうちに生まれますように。
最高のクリスマスプレゼントは、イエスから与えられる和解と赦しだ。
慰めの手
看護師のメモに「患者あばれる」とありました。心臓手術の麻酔から覚めた後、アレルギー反応が起こりました。私はひどい状態でした。自分で呼吸管を抜いてしまわないように、腕は縛ってありましたが、身体が激しく震えて、そのひもを引っ張りました。ひどく恐ろしく、痛い経験でした。その中で、ベッドの右側にいた看護助手がそっと手を握ってくれました。それは思いがけない出来事でしたが、驚くほどホッとしました。私の身体は緩み、ひどい震えは止まっていきました。
祈れない日々
開胸手術をする必要があると2015年の11月に分かり、私は少し動揺しました、当然、死が頭をよぎり、仲直りすべき人はいないか、妻や子の生活費は大丈夫かなどと考えました。術後すぐには働けないので、仕事の段取りなど、祈りと行動が必要でした。しかし、実際はどちらもできませんでした。私は肉体的にも精神的にも弱っていて些細なことも億劫でした。驚いたことに、祈ろうとすると身体の辛さに気が散り、心臓疾患で呼吸が浅いので、すぐに居眠りしました。私は苛立ちました。仕事どころか、生きながらえて家族と過ごしたいと祈ることすらできません。
野心は悪いもの?
聖書のみことば:コロサイ3:22-24
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。—コロサイ3:23
野心は悪でしょうか。一番を目指して必死になってはいけませんか。そんなことはありません。問題は、何のために一番になりたいのかという動機です。
使徒パウロは、クリスチャンは「神を喜ばせる」ように生きなさい、とテサロニケ人への手紙第一4章1節で語りました。神を喜ばせたいという情熱に火がついたのは、救われた瞬間だったという人がいます。一方で、自分ではなく神を喜ばせたいという変化は徐々に起こったという人もいます。しかしどちらにせよ、クリスチャンは、神の目指すところを追い求めなくてはなりません。
というわけで、職場では「この仕事によって、私はどのように人に仕え、神に栄光を帰すことができるのだろう」と追求しつつ働きましょう。神の栄光を求めるなら、焦点は自分の外にあります。神を見つめ、他の人たちに目を向け、神が自分にどのような能力を与えてくださったのか、それをどのように用いるべきなのかを問い続けながら進みましょう。
パウロは、「主を恐れかしこみつつ、真心から」働きなさいと勧めます(コロ3:22)。会議室でも工事現場でも、どこで何をしていても、いつも神に対してするように行動しましょう(23-24節)。
自分の快楽でなく神の喜びのために、卓越を目指して熱い心で働くとき、私たちは最も神に栄光を帰しています。また自らも、最も神を楽しんでいます。自分の利を求めるのではなく、神と人の益を求めましょう。なぜなら、神は全てをささげるに値するからです。
自分で偉大になろうとすれば、どんどんこじんまりしていく。
ウォーリーをさがせ
絵本シリーズ「ウォーリーをさがせ」を読んで、ごちゃごちゃしたページの中に隠れている「ウォーリー」を見つけた我が子の喜びを共有するのは嬉しい体験です。
誉れには誉れを
アーリントン国立墓地の無名戦士の墓の衛兵交代式は、簡素ながら荘厳で感動的です。一糸乱れぬ動きは、その名も、その功績も、神のみが知る兵士たちへのささげものです。その式は、見物者が立ち去った後も、一定間隔で行われます。どんな天候でも必ず毎日一定間隔で続けられることにも感動させられます。
順送り
聖書のみことば:Ⅱコリント1:3-7
あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。——Ⅱコリント1:7
長い間、人を見てきて気づいたことは、苦しみを体験した人たちは、苦しんでいる人たちにすぐに手を差し伸べるということです。子どもを亡くして苦しんでいた若い夫婦に手を差し伸べたのは、自分たちも子どもを亡くしたことのある夫婦でした。収入の当てを失った夫婦に即座に手を差し伸べたのは、過去に家や家財を差し押さえられ処分されてしまった夫婦でした。私は、互いに支え、互いに励まし合うキリストのからだを何度も目にしてきました。このクリスチャンたちは学びました。自分の辛い体験を用いて、同じような困難の中にいる人たちに手を差し伸べることができるのだと。
身体を壊したことがありますか。家族を亡くしたことがありますか。服役したことがありますか。ひどい扱いをされたことがありますか。
すべての試練について、神は約束しておられます。最悪の体験からでさえ、神は良いものを私たちの内に生み出してくださいます(ヤコ1:2-4)。その鍵は、神がくださった慰めを同じ苦しみの中を通っている人たちと分かち合うことです。
パウロがコリント人への手紙第二1章3~7節で述べているように、救い主は私たちの苦しみを知っておられ、私たちを慰めてくださいます。そして、その慰めを他の人たちに順送りするなら、神がほめたたえられます。私たちはこうして、主に誉れを与えます。
苦しんでいる人をひとりで放っておいてはいけません。試練に見舞われている人がいるなら、神に助けていただいて、神のご臨在のうちに導いてあげましょう。それが最も確かな慰めです。
神が私たちを慰めてくださるので、
私たちは他の人たちを慰めることができる。
能力に関わらず大切な人
私たちの神は、私たちの奉仕や善行よりも、私たち自身を愛しておられます。神はもちろん、私たちが勤勉に働くことを願われます。また、神の造られた世界を、責任を持って管理することを望まれます。困っている人や社会的弱者と呼ばれる人に仕えたり、イエスの救いにまだ応答していない人を心にかけたりして欲しいと願われます。しかし、それはそれとして、神はやはり、私たちの奉仕や善行より、私たち自身を愛されるのです。私たちは、そういう神に仕えています。
素朴な言葉の力
父の病室に笑い声が響いていました。見舞客は、初老のトラック運転手ふたり、元演歌歌手、町工場の熟練工、農家の主婦ふたり、そして私です。