愛の大使
チャプレンという仕事柄、職場でケアする人以外からも信仰のことを教えて欲しいと言われることがあります。喜んで時間を割きますが、実は教えるより教えられることの方が多いのです。ある時、クリスチャンになりたての真面目な人が、「聖書を読むことは、私のためになりません。神が私に求めておられることを読めば読むほど、私は周囲の人を裁いてしまいます」と、自分の悩みを打ち明けました。
鍛冶屋と王
アレキサンダー・マッケイは1878年、スコットランドから現在のウガンダに宣教師としてやってきました。彼はムテサという王が統治している村に入り、まず、鍛冶屋の作業場を作りました。村人たちは、農具を作る外国人をけげんな顔で見つめました。その地方では、労働は女性のすることでした。男性は決して働きません。彼らは他の村を襲って村人を捕まえ、奴隷として外の人に売っていました。
深く愛されて
昔ボストンで働いていたとき、職場からグラナリー墓地が見えました。そこには、アメリカ独立宣言に署名したジョン・ハンコックやサミュエル・アダムズの墓石があり、彼らの伝令を務めた愛国者ポール・リビアの墓碑もそのそばにあります。しかし、この3人が広い墓地のどこに埋葬されているのか、今では誰にもわかりません。墓地の景観を一新したり、芝刈り機がスムーズに動けるように、多くの墓碑や墓石を何度も動かしたためです。ここには約2,300基の墓碑がありますが、実際には5千名あまりが埋葬されているといいます。死んでさえ、十分に知られない人生があるということなのでしょう。
感謝を忘れる
ギィー、ガァー、ギィー、ガァー。激しい雨の中、ワイパーのきしむ音が私をさらに苛立たせました。生活に必要な現金を調達するために、私は、より安全な愛車を手放し、走行距離約13万キロメートル、子供用の側突エアバッグも付いていない古い中古車を買いました。その時までに貯金は底をつき、自宅も手放していました。生命にかかわる病気の医療費が健康保険では支払われず、家計がひっ迫していました。「神さま、もうたくさんです」と、私は大声で言いました。「横から当たられたら、子どもたちを守ることもできない。何かあったら、どうしてくれるんですか。」
解放される
ある会社で研修会の講師をしたとき、従業員の中年男性に尋ねられました。「私は人生の大半をクリスチャンとして過ごしましたが、常に自分に失望しています。なぜ私は自分がしたくないと思うことをやりつづけ、すべきだと思っていることができないのでしょう。神は私にうんざりしていませんか。」そばにいた別のふたりも、私をじっと見つめていました。
主の尊い御名
英語圏では、神を意味する「ゴッド」という言葉が、感嘆符のようにみだりに使われることがあります。ですから、十戒の第三番目、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない」(出20:7)は、そういう行為を戒めているだけだと思われがちです。しかし先日、尊敬するクリスチャンの友人と話をして、もっと深く考えるべきだと教えられました。
ガチョウと厄介な人々
今の家に引っ越して間もないころ、私は近くに巣を作っているガチョウの美しさに魅了されました。互いの世話をしたり、一列になって水に入って行ったり、見事なV字隊形を作って空を飛ぶ様子を見て感心しました。彼らの子育てを見るのも楽しみでした。
逃したチャンス
今日、なんとも悲しい言葉を聞きました。ふたりのクリスチャンが話し合っていたのですが、彼らの意見は一致していないようでした。年上の方は、次々と繰り出す暗唱聖句を武器に相手の悪い点を指摘しています。若い方の人は、先輩の説教にも、彼の相手をすることにもうんざりしています。そのやりとりも終盤になって、年上のクリスチャンは相手のしらけた態度に、「前は熱心だったのに…。いったい何が気に入らないんだ」と言いました。
皆無事です!
エンデュアランス号は1915年1月、南極沿岸で氷塊に囲まれて座礁しました。アーネスト・シャクルトンを隊長とする探検隊のメンバーは、三隻の救命艇に乗り移って脱出し、エレファント島に漂着しました。しかしここは無人島で、正規の海路から遠く離れています。そこで1916年4月24日、シャクルトンと5人の同伴者は、22人の仲間たちに見送られ、小さな救命ボートで1,300キロほど離れたサウス・ジョージア島を目指しました。これは生還する唯一の望みであり、また大胆な試みでした。何と嬉しいことでしょう。4か月後、船が地平線に現れ、「皆元気か!」と叫ぶシャクルトンの声が聞こえました。その返事は、「皆無事です。皆元気です!」でした。