王の献酌官
私の好きな聖書の一節で仕事に適用できるのは、ネヘミヤ記の1章と2章です。ネヘミヤはアルタシャスタ王に仕えていましたが、エルサレムがいまだ廃墟のままであることを悲しんでいました。アルタシャスタ王は、ネヘミヤが非常に模範的な使用人だったので、彼を助けることで彼に栄誉を授けようとしました。
記憶する賜物
神学生の頃、老人ホームで働いていました。入居者の人たちの話に耳を傾けていると、ほとんどの人が、会話の端々で「今の生活は寂しい」と打ち明けました。友人たちはすでに亡く、自分がこの世を去ったとき、懐かしんでくれる人がいるだろうかと憂えているのです。
順送り
長い間、人を見てきて気づいたことは、苦しみを体験した人たちは、苦しんでいる人たちにすぐに手を差し伸べるということです。子どもを亡くして苦しんでいた若い夫婦に手を差し伸べたのは、自分たちも子どもを亡くしたことのある夫婦でした。収入の当てを失った夫婦に即座に手を差し伸べたのは、過去に家や家財を差し押さえられ処分されてしまった夫婦でした。私は、互いに支え、互いに励まし合うキリストのからだを何度も目にしてきました。このクリスチャンたちは学びました。自分の辛い体験を用いて、同じような困難の中にいる人たちに手を差し伸べることができるのだと。
最後から読む
本の最初を読まずに、結末を読んでしまうことが時々あります。そして、登場人物の中で誰が生き残り、誰が死んでしまうのかが分かり、結末を知ります。その後、私は心安らかにじっくりと、物語の筋や登場人物の有り様を味わったり、楽しんだりするのです。
遅い到着も 大歓迎
ある晩、老人ホームを訪れると、トムという名の入所者が部屋からそっと出て来て、私のところに来ました。しばらく雑談をしてから、彼は尋ねました。「これほど年をとってからクリスチャンになるなんて、神に失礼ではありませんか。」このような質問は、驚くに値しません。私はチャプレンですが、年配の人、依存症の患者、また前科のある人たちから、表現は違っても、よく同じような質問をされます。彼らは、自分たちはもう手遅れで、神を信じたり、神に用いられたりということが、できるはずはないと思っています。
心を守る
成人を対象にした聖書勉強会で長い間教えていましたが、生徒の質問に答えるときは、じっくりと聖書を考察するように努めていました。その後、40歳で神学大学院で教えるようになりましたが、あるとき、あの勉強会にいた女性の真剣な質問に、ひどい返答をしたことに気づきました。私のせいで2年間も悩んでいるに違いないと思うと、居ても立ってもいられなくなり、急いで帰宅すると電話をかけました。
応援したい
私は少年野球チームの監督をしていますが、初めの試合で顔面にデッドボールを受けた選手がいました。幸いけがは無かったのですが、当然のことながら心理的なダメージを受け、ボールを怖がるようになりました。毎試合、勇気を奮い起こしてバッターボックスに入るのですが、全く打てません。この状態はシーズンの終わりまで続きました。
シーズン最終戦。私たちのチームは大差で負けていて、意気消沈していました。そんなとき、あの選手が打席に入りました。カ~ン!鋭いヒットです。みんなびっくりして、選手たちは大騒ぎ。彼の両親も、他の選手の親たちも大声援を送りました。まだ大差で負けていたのですが、監督も飛び上がって喜びました。みんなこの少年を愛し、応援していたからです。
神も同じです。私たちを応援しておられます。私たちを深く愛し、神の愛の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」(エペ3:18-19)と願っておられます。
神は自分たちが失敗しないかと見張っていて、しくじると罰する厳しい存在だと考えている人がいます。そのような人たちに神の深い愛を伝えられるのは何という特権でしょう。神はご自分のひとり子を世に遣わされ、その御子を世の人の罪の贖いとして、十字架にはりつけにされました。それほどまでに私たちを愛し、応援しておられます。このことが分かったとき、人々はどれほど嬉しく思うでしょう。
安らぎの家
建設会社の人事部に勤務していたときのことです。会社が隣の州の仕事を受注して、作業員たちの通勤時間が往復4時間ほどになりました。私たちは、彼らの負担を軽くするために、現場近くで宿泊施設を確保しましたが、同時に運転手付のワゴン車も手配して自宅通勤の希望者にも備えました。驚いたことに、ほとんどの作業員は自宅通勤を選びました。
その中の一人は、職場で一番気難しい人でした。ところが彼は、別人のような笑顔で最初の夜に帰宅したときのことを嬉しそうに話しました。彼は通勤という選択肢があることを話さず、家族をびっくりさせようと思っていました。案の定、彼が帰ると、妻と4人の息子たちは驚いて大喜びしたのです。後日、彼の妻は社長にお礼の電話をしてきました。そして、家庭が大切であることを分かってくれる会社には、家族一丸となって誠を尽くし、ずっと支えていくつもりだ、と言ったそうです。
イエスは永遠の住まいをあげようと言われましたが(ヨハ14:2)、そのおことばに弟子たちがどれほど慰められたかは、短期間でも自宅に帰ることができなかった人ならわかるでしょう。イエスは、「あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」(3節)とおっしゃったのですから、これ以上の喜びはありません。イエスとともにいられるのは最大の喜びです。
主イエスとともに住むために私たちは天の我が家に行く、とイエスは約束してくださいました。これは人生最大の慰めです。
野心は悪いもの?
野心は悪でしょうか。一番を目指して必死になってはいけませんか。そんなことはありません。問題は、何のために一番になりたいのかという動機です。
使徒パウロは、クリスチャンは「神を喜ばせる」ように生きなさい、とテサロニケ人への手紙第一4章1節で語りました。神を喜ばせたいという情熱に火がついたのは、救われた瞬間だったという人がいます。一方で、自分ではなく神を喜ばせたいという変化は徐々に起こったという人もいます。しかしどちらにせよ、クリスチャンは、神の目指すところを追い求めなくてはなりません。
というわけで、職場では「この仕事によって、私はどのように人に仕え、神に栄光を帰すことができるのだろう」と追求しつつ働きましょう。神の栄光を求めるなら、焦点は自分の外にあります。神を見つめ、他の人たちに目を向け、神が自分にどのような能力を与えてくださったのか、それをどのように用いるべきなのかを問い続けながら進みましょう。
パウロは、「主を恐れかしこみつつ、真心から」働きなさいと勧めます(コロ3:22)。会議室でも工事現場でも、どこで何をしていても、いつも神に対してするように行動しましょう(23-24節)。
自分の快楽でなく神の喜びのために、卓越を目指して熱い心で働くとき、私たちは最も神に栄光を帰しています。また自らも、最も神を楽しんでいます。自分の利を求めるのではなく、神と人の益を求めましょう。なぜなら、神は全てをささげるに値するからです。