今から100年後
ロッド・サーリングは1975年「100年後も私のことを覚えていて欲しい」と言いました。テレビ番組『トワイライトゾーン』の生みの親は、作家として記憶されたかったのです。私たちも、自分の人生の意義を形にして末永く世に残したいと願います。
別の側面
初代教会の時代、ローマの宿屋は、ユダヤ教の指導者が自分の家畜さえ泊めないほど劣悪だったそうです。それでクリスチャンが旅するときは、通常、他の信者を探してもてなしてもらいました。
パクス・ロマーナ
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。—イザヤ書9:6
戦争の痛みを償える人はいません。それなのに、あるウェブサイトによると、現在、64カ国で何らかの武力衝突が起こっているといいます。それは、いつ、どのように終わるのでしょう。私たちは平和を望みます。しかし、正義を犠牲にした平和では困ります。
主イエスは「平和な時代」に生まれましたが、その平和は厳しい圧政によるものでした。パクス・ロマーナ、すなわちローマの平和は、ローマ帝国が全ての対抗勢力を握りつぶして維持されていました。
その7世紀前、戦争の影が色濃い地で、預言者イザヤが神のみことばを宣言しました。「死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った…ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。…その主権は増し加わり、その平和は限りなく」と(イザ9:2、6-7節)。マタイは、イエスの誕生はイザヤの預言の成就だと語ります(マタ1:22-23、イザ7:14)。
私たちは、飼葉おけの赤ちゃんをいとおしく思います。しかし、このいじらしいみどりごは、全能の主、「万軍の主」でもあられます(イザ13:13)。このお方は「ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえ」られます(9:7)。その国の統治はパクス・ロマーナのような圧政ではありません。平和の君の統治です。—Tim Gustafson
父なる神よ、十字架の死とよみがえりによって、私たちと神との間に平和をもたらすために、御子が来てくださったことはいくら感謝しても感謝しきれません。主イエスが平和と正義によって、すべてを治められることを感謝します。
神の小羊イエスは、ユダ族から出た獅子でもある。
パクス・ロマーナ
聖書のみことば:イザヤ書53:1-6
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。―イザヤ書9:6
戦争の痛みを償える人はいません。それなのに、あるウェブサイトによると、現在、64カ国で何らかの武力衝突が起こっているといいます。それは、いつ、どのように終わるのでしょう。私たちは平和を望みます。しかし、正義を犠牲にした平和では困ります。
主イエスは「平和な時代」に生まれましたが、その平和は厳しい圧政によるものでした。パクス・ロマーナ、すなわちローマの平和は、ローマ帝国が全ての対抗勢力を握りつぶして維持されていました。
その7世紀前、戦争の影が色濃い地で、預言者イザヤが神のみことばを宣言しました。「死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った…ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。…その主権は増し加わり、その平和は限りなく」と(イザ9:2、6-7節)。マタイは、イエスの誕生はイザヤの預言の成就だと語ります(マタ1:22-23、イザ7:14)。
私たちは、飼葉おけの赤ちゃんをいとおしく思います。しかし、このいじらしいみどりごは、全能の主、「万軍の主」でもあられます(イザ13:13)。このお方は「ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえ」られます(9:7)。その国の統治はパクス・ロマーナのような圧政ではありません。平和の君の統治です。
父なる神よ、十字架の死とよみがえりによって、私たちと神との間に平和をもたらすために、御子が来てくださったことはいくら感謝しても感謝しきれません。主イエスが平和と正義によって、すべてを治められることを感謝します。
神の小羊イエスは、ユダ族から出た獅子でもある。
楽園の溶岩流
ゆっくり進む溶岩流がパチパチと音を立てて木々を焼いていきます。住民が立ち尽くしていました。日頃「楽園」と呼ばれるハワイ島のプナ地区で、岩の裂け目から溶岩が流れ出し、この島が人には制御不能の噴火によって造られたことを再確認させました。
肩に置かれた手
コリンはキリスト教を敵視する地域で援助活動をするチームに加わる準備をしていましたが、次第に不安と緊張が高まってきました。チームメイトに打ち明けると、彼は仕事の手を止め、コリンの肩に手を置 き、励ましの言葉をかけました。当時を振り返り、あの手のぬくもりが ターニングポイントだったと彼は言います。神がともにいてくださるという単純な真理をしっかり確認したのです。
偽善者に対する神の心
南アフリカのクリケットの選手が、2016年の試合で不正をしたとき、別の選手は「僕のチームの誰かがそんなことをしたら失望する」と言いました。しかし、わずか2年後、当の選手が、同じようなスキャンダルを暴かれました。
わたしは何者なのか
デイブは自分の仕事が好きでしたが、別の方向に引かれていると感じていました。宣教です。ところが、第一歩を踏み出すときになって不安に襲われました。「僕は宣教師にふさわしくない。そんな器ではないんだ」と友人に言いました。
どんな犠牲を払っても
映画「パウロ 愛と赦しの物語」は、教会の迫害を真っ向から描いています。配役リストには「殴られた女、殴られた男、クリスチャンの犠牲者1、2、3」などがあり、無名の人物を通してでさえ、イエスに従う危険が分かります。