静まる
支援物資を積んだトラックで穴だらけの道を走ると、裸足の子どもたちが見つめていました。突然、塀で囲まれた市長の大邸宅が現れましたが、彼はそこにいません。生活必需品にさえ事欠く市民を気にも留めず、遠い町で贅沢に暮らしているのです。
私たちの欲しいもの
ある老人が「馬車の時代から人が月に行く時代まで生きたのに、人生はずいぶん短いものだ」と話したそうです。それで人は永遠のいのちを求めます。その結果、イエスを信じるのは良いことですが永遠のいのちについてどれほど理解しているでしょう。
一羽の雀さえも
今まで凛として生きてきた母が老衰で弱り、ホスピスのベッドに横たわっています。呼吸さえ苦しい母の姿と窓から見える春の陽気な景色は対照的です。どんなに心の準備をしても、死の別れを前にした厳しい現実には不十分です。私は、死とは何と屈辱的なものだろうと思いました。
神を擁護する
神を否定するステッカーを貼った車を元無神論者の大学教授が見て、この車の持ち主はキリスト者を怒らせたいのだろうと思いました。しかし、キリスト者の怒りは無神論者の思考を正当化するだけだそうです。
触れるだけで
短期医療宣教チームの一員として東アフリカの奥地に行くチャンスが与えられましたが、カイリーは不安でした。初歩的な医療処置はできますが、医者でも看護師でもなかったからです。
与えるという贈物
人助けに関して、着ているシャツさえも脱いで…という言い回しが英語にありますが、ある牧師が「自分のコートを脱いで暖かい服の必要な人にあげましょう」と礼拝で提案しました。そして、自分のコートを脱いで教会の前に置きました。皆は一瞬、引いてしまいましたが、20~30人ぐらいの人が牧師に倣ってコートを置きました。外は冬空で、その人たちは震えながら帰宅しましたが、コートをもらった人たちは、少しだけ暖かい冬を過ごせました。
コシの勇気
トーゴ共和国のモノ河で洗礼を待つ間、コシは古びた不気味な木像をおこしておいた火に投げ込みました。彼の一族はずっとこれを拝んできたのです。これに最上の鶏をささげることは、もう二度とありません。
二枚の写真
友だちに写真を見せている老婦人がいました。一枚目は故郷のブルンジ共和国にいる娘の写真。二枚目はその娘に生まれた孫の写真です。けれども、孫を抱いているのは娘ではありません。出産で亡くなったのです。友だちは老婦人の頬に手をやって「分かるわよ、分かるわよ」と涙ながらに言いました。彼女もまた、二ヶ月前に息子を亡くしていました。同じ経験をした人の思いやりは特別です。その辛さを知っているのですから。
私の全て
教会の音楽には何かが欠けていると感じていた青年アイザック・ウォッツは、もっと良いものを作りなさいと父親に促され、挑戦しました。ウォッツの作品「十字架にかかりし」(聖歌158番)は、英語の賛美歌の傑作と言われ、多くの言語に翻訳されています。