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Xochitl Dixon

Xochitl Dixon

ソーチル・ディクソン氏は、読者が神の恵みを喜んで受け入れ、キリストとの関係や人間関係を築くために励まし、支えることを目指します。執筆や講演活動をする中、xedixon.comにてブログを公開しています。趣味は歌を歌うこと、読書、写真撮影等です。また、一番の親友であり夫のW.アラン・ディクソンSr博士との結婚生活や子育ての毎日を楽しんでいます。(注:サイトは英語のみ)

寄稿一覧 Xochitl Dixon

生活が大変なとき

心身ともに疲れ果てソファーに倒れ込みました。神の導きに従ってカリフォルニア州からウィスコンシン州に家族で引っ越しましたが、到着するやいなや車が故障し、2ヶ月間、移動手段がありません。夫は予想外の腰の手術、私は慢性痛があるので、荷解きが進みません。新しい家は中古住宅で、修理にお金のかかる問題があると分かりました。我が家の老犬は病気です。新しい子犬が来て嬉しいのですが、活発で予想以上に手がかかります。それやこれやで、私は険悪になってきました。どうすれば、人生のでこぼこ道を通るときでも、揺るぎない信仰を保てるのでしょう。

最大の謎

イエスを信じる前、伝道メッセージの説教を聞いても、なぜイエスが神と言えるのだろうと戸惑いました。聖書は、神だけが罪を赦せると教えているのに、なぜイエスは罪の赦しを提供できるのだろうと思いました。しかし、そのような疑問を持つのは私だけではないと、J.I. パッカー著の「神を知るということ」を読んで知りました。パッカー師は、多くの未信者にとって理解し難いことは、ナザレのイエスは完全な人でありながら完全な神である、というキリスト教の主張だと語ります。しかし、この真理こそが、人類を救うのです。

ひそかな贈り物

花瓶の中のチューリップや水仙、可憐なスズランが、キムを玄関で出迎えます。毎月、匿名のクリスチャンが花束を送ってくれます。手書きの励ましのみことばと「愛をこめて イエスより」というサインとともに。もう7か月になります。

愛に洗い清められ

南カリフォルニアの小さな教会の人たちは、神の愛を行動で表現する方法を思いつきました。教会員たちがコインランドリーに集い、貧困家庭の人たちの服の洗濯をさせてもらって地域に貢献しました。みんなで服を洗い、たたみ、時には食事や食材を提供します。

神とともに今を歩む

作家C.S.ルイスは『キリスト教の精髄』の中で「神が時間の中にいたまわぬことは、まず確かである。神の生は相継起する瞬間から成り立ってはいない…10時30分は―そして世界の初め以来のあらゆる瞬間は、神にとってはつねに現在なのである」と語ります。とは言え、永遠に待っているかに感じる時があります。しかし、時間の創造主、神を信頼することを学ぶにつれ、己のもろい存在は、神の御手で守られているという現実が分かってきます。

心からのありがとう

夫のアランは、就活中の息子ザビエルに礼状の書き方を教えました。また、長年企業で管理職をしている経験を生かして模擬面接をしてあげました。そして履歴書をしまっている息子に向かい、面接後に礼状を出すことを忘れないように念を押しました。息子は「分かっているよ。心を込めて礼状を書けば、きちんと対応してくれる、だよね」と言いました。後日、採用するという電話がかかってきたとき、担当マネージャーは、自筆の礼状をもらったのは、長年の経験の中でも初めてで、嬉しかったと言いました。

希望を捨てない

がんと診断され、医者に身辺整理を促された友人が電話をしてきて、夫と幼い子どもたちが心配だと泣いていました。私は共通の友人たちに連絡し、ともに祈りました。その後、セカンドオピニオンを求めた医師に、あきらめるなと励まされたと知り喜びました。彼のチームが全力を尽くすと約束してくれたのです。その後、彼女は体調のアップダウンに振り回されず、神を見上げ、決してあきらめませんでした。

勇士のように歩む

エマは18歳。イエスを信じる喜びについてソーシャルメディアで 堂々と語ります。しかし、彼女の容姿を云々したり、イエスを信じているのは知性が欠けるからと言われたりなど、悪意ある中傷も多々あります。彼女は心無い言葉に深く傷つきますが、それでも大胆な信仰で福音を伝え、イエスに対する愛と隣人に対する愛を語ります。しかし時々、批判する人の言葉で自分を評価しそうになります。そんな迷いがわき起こるとき、彼女は神にすがり、迫害する者のために祈り、みことばを黙想し、聖霊によって力づけられて自信を取り戻し、前進します。

名前を書き込む

児童文学作家グレニス・ネリストは著書「神からのラブレター」で、神と深く個人的につながることを促しています。聖書の話の後に、「神さまからのメッセージ」という欄があり、その一番最初に子どもの名前を宛名として書き込める余白があります。聖書が単なる物語ではないことを子どもたちにわかってもらうためです。神が聖書を通して語り、友だちになりたいと思われること、自分は神に愛されていると、子どもたちは学びます。