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Xochitl Dixon

Xochitl Dixon

ソーチル・ディクソン氏は、読者が神の恵みを喜んで受け入れ、キリストとの関係や人間関係を築くために励まし、支えることを目指します。執筆や講演活動をする中、xedixon.comにてブログを公開しています。趣味は歌を歌うこと、読書、写真撮影等です。また、一番の親友であり夫のW.アラン・ディクソンSr博士との結婚生活や子育ての毎日を楽しんでいます。(注:サイトは英語のみ)

寄稿一覧 Xochitl Dixon

自然を守る責任

夫婦で旅行に行き、浜辺を散歩していると、仮設の柵で仕切られている大きな正方形の砂地がありました。それはウミガメの卵を守るためだそうです。ボランティアが24時間体制で働いていると若い男性が説明してくれました。ふ化したばかりの亀の子が巣から出てくると、動物と人間の両方が、生存の脅威です。「私たちの懸命な努力にもかかわらず、科学者の推定によると、5千匹の子亀の内、成体になるのは1匹だけだそうです」と言いました。しかし、彼はこの暗い予測にもめげません。亀を守ろうという彼の情熱は、私の心を動かしました。私は今、ウミガメのペンダントを着けています。神の被造物を世話するという私たちに課された責任を忘れないためです。

信仰の筋トレ

動物園に行ったとき、ナマケモノのおりのそばで休憩しました。ナマケモノは逆さにぶら下がって動かず満足そうです。私は溜息をつきました。私は健康上の理由から、じっとしていると辛く、せかせかと動かないわけにはいかないのです。そして、常に疲れている自分にうんざりしています。しばらく眺めていると、ナマケモノは、片方の腕を伸ばして近くの枝をつかみ、また動かなくなりました。静止には筋力が必要です。もし私が、ナマケモノと同じくらいゆっくり動いたり、じっとしていようとしたりしたら、相当な筋力がいるでしょう。辛い日、憂うつな日、私が神を信頼するには、超自然的な力が必要なのです。

天空で聖餐

アポロ11号月着陸船イーグルは、1969年7月20日、月の「静かの海」に着陸しました。バズ・オルドリン宇宙飛行士は許可を得て、聖餐のためのパンとぶどう酒を持参していました。月面に降りる前、彼は聖書を読み、天空での聖餐にあずかりました。彼は次のように書いています。「教会が持たせてくれた聖杯にワインを注ぎました。6分の1の重力の中、ぶどう酒は優雅にゆっくりと杯の側面を上っていきました」

神の備え

配給品の積み下ろしをママが毎週手伝うので、3歳のバディも教会に行きます。トラックが故障したという話を聞いて、バディは「配給はどうなるの?」と心配しました。ママは新しいトラックを買うために教会が献金を募るだろうと言いました。バディはにっこりして「僕、お金あるよ」と貯金箱を持って来ました。38ドル分の硬貨が入っています。大した金額ではありませんが犠牲的な献げ物です。神は、みんなとバディの献金で新しい冷蔵トラックを購入させてくださり、教会は地域に仕え続けることができました。

希望の虹

旅行に出かけたのに最初の数日間は持病の痛みのために部屋にいました。気分は冬空のようにどんよりしています。近くの灯台を見物しようと夫婦でやっと外出できたときも、目に映ったのは灰色の景色でした。それでも私は、曇り空と影のある山々の写真を何枚か撮りました。その夜、土砂降りでどこにも行けないことに落胆しながら、撮った写真に目を通していると、何と「虹」が写っています。私は己の憂鬱(うつ)さばかりに気を取られ、疲れた心を癒やそうとされる神の希望の御業を見逃していたのです(創9:13-16)。

希望で嵐を突き抜ける

数名の竜巻追跡人たちが、2021年春、テキサス州で発生した竜巻とその横に現れた虹のビデオを撮影しました。その一つには、長い麦の穂が渦巻く風の力でしなり、鮮やかな虹が灰色の空に曲線を描いて竜巻に向かって伸びている様子が写っていました。道路わきに立って、ねじれたじょうごの形をした雲の脇にはっきり表れた希望のシンボルを撮影する人もいました。

分かち合う価値

クリスチャンになって母に伝道すると、1年間、絶交されました。過去に嫌な経験をしたので、クリスチャンに不信感を抱いていたのです。私は祈り、毎週、電話をしました。母に無視されても、聖霊は私を慰め、私の心を養ってくれました。やっと電話に出てくれるようになると、私は、母を思いやることと神の真実を丁寧に伝えることを心がけました。親子の関係が回復してから数ヶ月後、母は私が変わったと言いました。そして約1年後、母もイエスを受け入れ、私たちの関係はより深いものになりました。

リスクを冒す価値がある

理由も言わず長年の友が去り、私は気持ちを整理しようと、C.S.ルイスの『四つの愛』を再読しました。ルイスは、傷つくことをいとわないのが愛だと説き、そこに「安全な投資」はないと語ります。それを読んで、ヨハネの福音書21章の記述について、以前とは別の感慨を持ちました。

神の大いなる愛

子どもたちに純潔の大切さを伝えるワークショップの講師を頼まれましたが、断りました。私は10代で家出をし、すさんだ生活の中で負った傷に長年苦しんだからです。結婚して最初の子どもを流産したときは、神罰が下ったと思いました。30歳でようやく神に白旗を上げたとき、私は自分の罪を告白しました。その後も何度も何度も神に謝りました。しかし、恥と罪悪感を拭うことはできず、疲れ果てていました。神の愛の賜物をいまだしっかりと受けきれていない私が、どうして人に語れるでしょう。しかし、時が経つにつれて、自分を過去に縛りつけていたうそから、徐々に解放されていきました。そしてついに、神がずっと差し出しておられた赦しを受け取ることができたのです。全ては神の恵みでした。