喜ばしい日
◆ 詩篇113-115
◆ Ⅰコリント6
子どもたちがまだ小さかった頃、私は10日間の聖会奉仕の旅を終えて帰国しました。当時の飛行場は、到着の客を出迎える人たちがゲートの中まで入ることが許されていたので、飛行機が着陸してタラップから降り立つと、幼い子どもたちが出迎えてくれました。みんなパパに会えた嬉しさのあまり、大声で泣きじゃくっていました。妻を見ると、目に涙をいっぱいためています。私は、何も言えませんでした。子どもたちが私の足に抱きついて「パパ!パパ!」と叫ぶのを見ていた人々も、涙を誘われていました。それは、本当に素晴らしいひとときでした。
良い行い
◆ Ⅱ歴代誌30-31
◆ ヨハネ18:1-18
妻のマーティーは料理上手です。仕事が終わって、彼女の手料理を味わうのは、私の楽しみです。彼女は夕食の後、近所まで出かけなくてはならないときがあります。そんなとき、テレビのリモコンを握っているか、食事の後片付けをするかは、私次第です。それで、袖をまくりあげ、食器を食洗機に詰め込み、鍋釜を磨くという好ましい行いができるときもあります。すべては、「まあ、ジョー!後片づけなんてしなくても良かったのに」と嬉しそうに妻が言うのを聞くためです。そして私は、「僕が、どれだけ君を愛しているか見せたかったのさ」と言うのです。
神を愛する者
◆ 創世記10-12
◆ マタイ4
心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。
―マタイ22:37
アッシジの聖フランシスの短い伝記をG.K.チェスタートンが記しています。アッシジの聖フランシスは12世紀生まれの独自性豊かであわれみ深い人物ですが、チェスタートンは、彼の心の内を垣間見ることから始め、次のように述べています。「聖フランシスは、人類ではなく人を愛しました。彼は、キリスト教ではなくキリストを愛しました…アッシジの聖フランシスという偉大な神秘論者にとって、宗教は『理論』のようなものではなく『恋愛』のようなものだったのです。そのことに合点がいくまで、読者にとって聖フランシスの話は非常に突飛なだけで、何か意味があるとはとても思えないでしょう。」