罪人が行くところ
私の友人は、あるとき、キリスト教を毛嫌いしている人と信仰の話をしていました。いかにもクリスチャンという証をしたら、ひどい拒絶反応が起こるだろうと分かっていた友人は、話の途中でこう問いかけました。「なあケンジ、じゃあ罪人はどこに行くか知ってるの?」
友人は答えました。「そんなの簡単さ。地獄だろ?」「いや。教会に行くんだ。」
予想外の答えに、ケンジはあっけにとられました。自分の不完全さを率直に認めるクリスチャンを前にして、どう返答すべきか分からなかったのでしょう。私の友人は証のチャンスを得ました。そして、クリスチャンは自分も罪深く、常に霊的に修復されなければならないと分かっている、と話しました。また、神の恵みについても説明することができました。神の恵みとは、罪人の私たちに分不相応な、神のあわれみの行為です(ロマ5:8-9、エペ2:8-9)。教会の外の人たちは、本来の教会をイメージできるでしょうか。「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得て」(コロ1:14)いると信じる人たちが、救い主をたたえるために集まっているところが教会だ、ということがうまく伝わっているでしょうか。そうではないかもしれません。
そうです。罪人は教会に行きます。そして、赦された罪人は、神の恵みによって天国に行きます。
隠れようがない
何かが焦げているような臭いがしたので、急いで台所に行きましたが、コンロもオーブンも大丈夫です。臭いをたどりながら家中を巡って階下に降り、鼻を頼りに進んでいくと、私の仕事部屋にたどり着きました。そして、机の下を覗き込むと、「香り豊かな」飼い犬のマギーが、「助けて」と目で訴えています。2階で焦げ臭いと思った臭いは、スカンクのガスだったのです。
あの人でさえ
家系図をたどっていくと、先祖には娼婦がいて、その人は国家の敵をかくまった上に役人の尋問を嘘でかわしていたということが分かった、と想像してみてください。あなたならどうでしょう。恥ずかしいご先祖さまとして秘密にしますか。それとも、一族の伝説のヒロインとしてスポットライトを当てて賞賛するでしょうか。
ラハブを見てみましょう。もし彼女がヨシュア記2章にしか登場しないなら、私たちは彼女を聖書に登場する他の裏切り者と一緒くたにして、悪者のひとりにしてしまうかもしれません。ところが、彼女の物語はここで終わっていません。マタイ1章5-6節には、彼女がダビデ王の高祖母であることが示されています。つまりラハブは、救い主イエスの家系に連なっています。さらにヘブル11章31節は、ラハブを信仰の人と語り、エリコの陥落(ヨシュア記6:17参照)によって滅びなかったのは、その信仰によるのだと記しています。ヤコブの手紙2章25節は、彼女がイスラエルのスパイを救出したのは立派な信仰の証だと語ります。
神の愛にはびっくりさせられます。神は、評判の悪い人に目を留めて、その人の人生を変えられます。変えられた人生をとおして、神の愛と赦しを明らかに示されます。自分は悪すぎるので赦されないと思っていますか。または、そのように思っている人を知っているなら、ラハブについて読んでください。そして喜んでください。神はラハブでさえ正義のかがり火に変えてくださいました。そういうことならば、私たちにも希望があるはずです。
隠れた扉
◆ エゼキエル書4-7
その種の事件はスポーツ界で前代未聞というわけではありません。これが最後でもないでしょう。しかし、この事件に言及することで、恥ずべき過ちを繰り返さないように、自分たちを戒めることができるかもしれません。
クリスチャンで人格者だと思われていた大学フットボールチームのコーチが、全米大学体育協会の規則に対する明確な違反が発覚して、辞任に追い込まれました。ある雑誌は、「彼を公明正大な人としてきたこと自体、大学フットボール界の大いなる神話だったのではないか」とまで述べています。
これは彼にとって何とも恥ずべき事態でしたが、それ以上に、誰にでも起こりうることだという私たちへの警鐘でもあります。人生に秘密の扉をこっそり作り、その向こうで主の御名を汚すような行為をするという誘惑に、人は絶えずつきまとわれます。誠実さと正しさを忘れ、キリストの名をはずかしめてしまうリスクは、誰にでもあります。私たちは皆、誘惑に弱いのです。
誘惑に負けないためには、どうすればよいのでしょう。まず、誘惑が常にあることを認識し(Ⅰコリ10:13)、罪の恐ろしい結末を理解しましょう(ヤコ1:13-15)。そして、クリスチャン同士で説明責任を果たしましょう(伝4:9-12)。それに加えて、転ばないように神の助けを祈りましょう(マタ26:41)。なぜなら、神の恵みと力のみが、私たちを転落から守ってくれるからです。また転んだときでも、助け起こしてくださいます。
どんな罪にも入り口がある。その扉を決して開いてはいけない。
平和と和解
◆ Ⅱ列王記1-3
◆ ルカ24:1-35
私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。―マタイ18:33
アメリカ合衆国では、1865年に南北戦争が終結しました。この戦争で50万人以上の兵士が犠牲になり、経済は壊滅的な打撃を受けました。そして国民は未だ、政治的に分裂したままでした。母の日を祝う慣習は、この苦難の時期に、平和と和解のために尽力したふたりの女性によって広がりました。1870年、ジュリア・ウォード・ハウは、女性が団結してあらゆる戦争に反対する「国際母の日」を提唱しました。数年後、アンナ・リーヴズ・ジャービスは、戦争によって疎遠になった家族や隣人を再びひとつにするために、年に一度、「母によるフレンドシップの日」を始めました。家族や友人の関係にひびが入り、互いに赦し合うことができないなら、そこには常に大きな苦しみが伴います。