「マリアは三か月ほどエリサベツのもとにとどまって、家に帰った」(ルカ1:56)
私の「信仰の友」の一人は50歳も年上ですが、年の差を気にせずお互い心の内を分かち合うことができる関係です。絶望と孤独にさいなまれていた頃、私は彼女に「神がいるかどうかなんて、もうわからない。いたとしても、私のことなど気にもしていない。もう信じられない」と、思いの丈を打ち明けました。彼女は黙ってその嘆きを最後まで聞くと、意外な言葉をかけてくれました。
「いいのよ、それで。だって私が代わりに信じているから。私が信じられなくなったときは、あなたが代わりに信じていてね。」
キリストの救いは個人の体験であると同時に、それを越えるものです。信仰は私のものというだけでなく、「私たち」のものなのです。私はその時、共に信じる仲間がいることの幸いをずっしりと感じました。
神は、御告げを受けたマリアに、エリサベツという信仰の友を与えてくださいました。年は離れていましたが、二人とも神の不思議な御告げを受けて身ごもっていました。「あれは本当に神からのメッセージだったのかしら?」「赤ちゃんは無事に生まれるかしら?」それぞれに疑ったり、不安に襲われたりすることがあったでしょう。マタニティーブルーを経験したかもしれません。一緒に暮らした3ヶ月間、2人は「かわりばんこ」に信じて支え合ったのではないでしょうか。
マリアの夫となったヨセフも共に信じる仲間でした。子どもが生まれてからも夫婦それぞれ「これは本当に神さまの子だろうか」とか「無学な自分たちが、神の子を育てられるのか」と不信や不安に襲われ、落ち込むこともあったでしょう。そんなとき、二人は代わるがわるにお互いの信仰を支え合ったのでは、と想像します。
あなたにも共に信じる仲間が与えられています。もし「私にはそんな人はいない、ひとりぼっちだ」と感じる人がいるなら、どうか覚えていてください。今この時、これを書いている私がその一人です。