土の器
高価なアクセサリーは普通、黒など濃い色のベルベットを貼った箱に収められています。そのようにデザインされているのは、宝石の美しさをきわだたせ、人を惹きつけるためでしょう。もし、外箱のデザインも華やかだったなら、宝石の美しさと張り合ってしまいます。
このことは、私たちを通してなされるイエスのみわざについて思い出させてくれます。使徒パウロは、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」と語りました(Ⅱコリ4:7)。私たちは、イエスのみわざが宝であり、自分は器にすぎないことを簡単に忘れてしまいます。そして、自分という土の器を飾って、自分がキリストのためにしたことを自分の手柄にしてしまいます。自分が誰かを赦したり、他人に親切にしたり、たくさんの献金をしたりすると、人に認めてほしいと思います。けれども、良いことをしたので認めてほしいとか、褒めてほしいと求めるのは問題です。それは、輝く宝(私たちを通して神が働いておられるということ)と張り合うことだからです。
私たちがキリストのためにしたことはすべて、私たちに関することではなく、キリストの栄光に関することです。自分の姿を少しでも見えなくすることで、神の栄光は輝きを増します。ですからパウロは、神が栄光を受けるように、宝は土の器の中に入れると言ったのです。土の器が尊いなどと聞いたことはありません。大切なことは、その中に何が入っているかではありませんか。
埋もれた宝
◆ レビ記19-20
◆ マタイ27:51-66
私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。―詩篇119:18
子どものころ、無法者ジェシー・ジェイムズ(1847-1882)と同じミズーリ州の田舎で育ったので、彼が近くに宝物を埋めたに違いないと信じていました。友だちと宝の発見を夢見て、林の中を歩き回ったものです。そこで、大きな斧で薪を割っている年配の男性によく出くわしました。私たちは、この不思議なおじいさんが、高速道路の脇を歩いて空き缶を探しているのを何年もの間見ていました。空き缶は彼の宝でした。空き缶を換金すると、安酒を買って、屋根もなく壁も塗られていないぼろぼろの小屋に戻って行くのです。しかし家族によるならば、彼の死後、その小屋には多額の現金が残されていたそうです。