愛するために愛される
雑貨屋に「いかに愛するかではなく、いかに愛されるかによって、人の心は決まる」という、確か「オズの魔法使い」のせりふを記した壁掛けがありました。
愛する神のために
◆ 詩篇46-48
◆ 使徒28
数年前、私たちの教会では、数回の礼拝メッセージを通して、旧約聖書の幕屋について学びました。神はアカシヤ材で机を作って、その上に「供えのパン」を置くように命じられました(出25:23-30)。私は、この部分からメッセージを取り次ぐ準備として、人生初の断食を数日間行いました。「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる」(申8:3)という真理を実際に体験したかったのです。自分の大好きな「食べる」という行為を、最愛の神のために絶ってみたかったのです。そして、断食をしている間、イエスがマタイの福音書6章16~18節で教えているとおりにしようと決めました。
良い行い
◆ Ⅱ歴代誌30-31
◆ ヨハネ18:1-18
妻のマーティーは料理上手です。仕事が終わって、彼女の手料理を味わうのは、私の楽しみです。彼女は夕食の後、近所まで出かけなくてはならないときがあります。そんなとき、テレビのリモコンを握っているか、食事の後片付けをするかは、私次第です。それで、袖をまくりあげ、食器を食洗機に詰め込み、鍋釜を磨くという好ましい行いができるときもあります。すべては、「まあ、ジョー!後片づけなんてしなくても良かったのに」と嬉しそうに妻が言うのを聞くためです。そして私は、「僕が、どれだけ君を愛しているか見せたかったのさ」と言うのです。
神を愛する者
◆ 創世記10-12
◆ マタイ4
心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。
―マタイ22:37
アッシジの聖フランシスの短い伝記をG.K.チェスタートンが記しています。アッシジの聖フランシスは12世紀生まれの独自性豊かであわれみ深い人物ですが、チェスタートンは、彼の心の内を垣間見ることから始め、次のように述べています。「聖フランシスは、人類ではなく人を愛しました。彼は、キリスト教ではなくキリストを愛しました…アッシジの聖フランシスという偉大な神秘論者にとって、宗教は『理論』のようなものではなく『恋愛』のようなものだったのです。そのことに合点がいくまで、読者にとって聖フランシスの話は非常に突飛なだけで、何か意味があるとはとても思えないでしょう。」