バンパーカー
人生は遊園地にある「バンパーカー」によく似ています。衝突されることは承知で車に乗り込みますが、その衝突が、どの程度になるかは分かりません。そして、衝突されると、アクセルを踏んで相手の車を追いかけ、もっと強く当たろうとします。
これはバンパーカーならば面白いかもしれませんが、人生の戦略としてはいただけません。「衝突されたら仕返しをする」ということなら、その態度は問題を悪化させるだけで、結局のところ、みんなが苦しむことになります。
イエスはより良い戦略をお持ちでした。つまり、相手を赦すのです。私たちはペテロのように、「いったい何度、赦さなければならないのか」と疑問に思うかもしれません。ペテロが「七度まででしょうか」と尋ねると、イエスは「七度を七十倍するまで」と答えられました(マタ18:21-22)。言い換えれば、「恩寵」に限度はないのです。私たちは常に赦す姿勢でいなければなりません。なぜでしょう。イエスが借金を免除する主人のたとえ話で教えられたことによると、人を赦す理由は相手がそれに値するからではなく、自分が赦された存在だからです。たとえ話の主人は、「おまえがあんなに頼んだから…赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」と語っています(32-33節)。
私たちは多くを赦された者ですから、問題の悪化をとどめ、人々と祝福を分かち合いましょう。
教訓
夏のある日、高校の同窓会に出席すると、後ろから肩をたたく人がありました。私は、その女性の名札を見ながら、当時の記憶をたどりました。すると、小さく折りたたんだ紙が、私のロッカーにねじ込まれていた事件を思い出しました。その紙には、悪意に満ちた誹謗中傷の言葉が乱暴に書かれていました。私は深く傷つき、「なんて無神経な人なんだろう」と思ったものでした。青春の痛みがよみがえってきたように感じましたが、作り笑いを浮かべて彼女と適当に話をしました。
ところが彼女は、不遇な幼少時代や不幸な結婚生活について次々と話し出しました。その時ふと、「苦い根」(ヘブ12:15)という言葉が心をよぎりました。「ああ。そうなんだわ」と、私は思いました。長い間、この「苦い根」が私の心に張っていたのです。そして、私の心をがんじがらめにしていました。
「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ロマ12:21)という聖書のみことばが心に浮かびました。私たちは語り合い、ともに涙を流しました。ふたりとも過去の出来事には触れませんでした。
その日の午後、私は思い知らされました。心の中にぎゅっと押し込めていた苦々しい気持ちを解き放って、神に委ねなければならないと。神は私に赦すことを教えてくださいました。