全部は出来ない
ベッドに入る前、4歳のエリアーナは母親と一緒に自分のものを片づけていましたが、「ベッドの上の洋服を片付けなさい」と言われてかんしゃくを起こしました。小さな手を腰に当てて、「全部できないわよ」と怒鳴りました。
神に召されたことをしているとき、この子のように感じたことがありますか。教会の奉仕をし、良い証を立て、子育てもして、いっぱいいっぱいです。イライラし、ため息をついて、「主よ、全部はできません」と祈ります。
けれども、神の教えを見るなら、ギリギリまで頑張ることが期待されているのではないと分かります。例えば人間関係について、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」と言われました(ローマ12:18)。「自分に関する限り」という条件が付いています。神は、私たちの限界をご存じです。また、「何をするにも、人に対してでなく、主に対してするように、心からしなさい」と言われ(コロ3:23)、人にすごいと思われるような完璧さはなくても、神にささげるつもりで仕事をしなさいと語られます。さらにもうひとつ加えれば、「おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう」と言われ(ガラ6:4)、他人と競うのではなく、ただ負うべき自分の荷を負いなさいと教えられます。
神の知恵によって、神は各人に備えをくださいました。それによって、私たちはそれぞれ、神がして欲しいと思っておられることをするのです。これは決して全部ではありません。
年老いたパウロ
◆ 詩篇7-9
◆ 使徒18
自分の60歳の誕生日が来て、私の人生観はすっかり変わりました。私は以前、60代の人たちは「年寄り」だと思っていました。バリバリと働ける年数は、あとどれだけ残っているだろうと考えると、せいぜい10年ほどだろうと思いました。こんな不毛な考え方をしばらくしていたのですが、ふと、現役で働きに貢献している85歳の同僚がいることを思い出しました。それで、彼のところに行って60歳以降の人生について尋ねると、彼は過去25年間に、神がどれほど素晴らしい奉仕の機会を与えてくださったかを話してくれました。