モスクワで1991年8月に起こった政変の様子を、旅先のテレビ報道で見ていたのを覚えています。全体主義社会で育ったロシアの人々が突然、「我々は自由であるかのごとく行動する」と、戦車を見おろしながら宣言しました。ビルの中にいる全体主義の指導者たちと、外にいる大衆の表情は対照的で、実のところ、恐れているのは誰で自由なのは誰なのか、よく分かりました。

フィンランドのテレビ局が放映した、その赤の広場のニュース映像を見たとき、信仰の新しい定義が思い浮かびました。それは、逆パラノイアです。パラノイア(不安障害)の人は何もかもが心配で、心配を中心に人生が営まれます。新しく何かが起こると、それは不安を増幅させます。

信仰は逆向きに働きます。信仰の人は、不安ではなく信頼を中心に人生を営みます。目に見えるのは混沌とした状態だったとしても、神が統治しておられると信じ、自分がどう感じようと、「愛」である神にとって私は大切な存在だ、と神を信頼します。

「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです」(Ⅰヨハ4:4)と使徒ヨハネは語りましたが、もし、神の国にいる私たちが、この言葉が事実であるかのごとく行動したなら、どうなるでしょう。「みこころが天で行われるように地でも行われますように」は、教会で最もよく祈られる祈りですが、この祈りがすでに応えられたかのように、私たちが生き始めたなら、どうなるでしょうか。