1年で聖書を!
◆ イザヤ書20-22
◆ エペソ6
聖書のみことば マタイ11:25-30

 
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。―マタイ11:28


知り合いに「最近、忙しい?」と尋ねて、会話を始めることがあります。この質問は一見無害ですが、水面下に微妙なメッセージが隠れていると思います。人の価値を計っているようなところがあると思うのです。あれこれと予定がすぐに口をついて出てこないなら、自分が大した価値のない人間だと認めているように感じるからです。

しかし神は、忙しい人か否かで、その人の価値をお決めになるでしょうか。私たちの成果で価値を計算なさるでしょうか。自分の健康さえ省みず、燃え尽きる寸前まで奉仕することで、神の報いがあるのでしょうか。
 

子どもの頃、初めに暗唱した聖句のひとつはマタイの福音書11章28節「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」でした。当時は「疲れる」とはどういうことか分からなかったので、私にとってはあまり意味のないみことばでした。しかし大人になると、落ちこぼれないように世の中に合わせなければ、という誘惑にかられます。
 
しかし、クリスチャンは違います。私たちは罪の奴隷でしたが、イエスに解放されました。イエスはまた、自分の価値を自分で証明するという束縛からも、私たちを解放してくださったのです。
 
自分の奉仕が祝福されて良い結果が出ると、自分には価値があると感じられるかもしれません。しかし、私たちが神に感化されて人格者になっていくことの方が、神にとってはずっと価値があるのです。つまり、どれほど御子のかたちと同じ姿(ロマ8:28-30)にされたかということです。 (Julie Ackerman Link)

私たちの価値は、私たちが神のために何をしたかではなく、神が私たちに何をなさったかで計られる。