◆ エゼキエル書37-39
◆ Ⅱペテロ2
キリストは、……私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、―Ⅰコリント15:3-4
以前、“WWJD”という言葉がクリスチャンの間で大流行しました。これは「イエスならどうするだろう?」という英文の頭文字です。この文字の入ったブレスレットは、多くの人にとって有益なものでした。イエスのみこころを考えて行動することを忘れないようにと意識させてくれたからです。自らの態度や決断をイエスが示された手本に照らしてみるのは、救い主に栄光を帰する生き方をしたいと思う人たちにとって正しいことです。
しかし最近、ある教会で“WDJD”という別の文字を見ました。それは『イエスは何をされたか?』の頭文字です。実は、それこそもっと重要な質問です。なぜなら、私たちの救いは、このこと無しでは語れないからです。神の御子がなさった素晴らしい業の中の最たるものについて、使徒パウロはこのように語ります。「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」(Ⅰコリ15:3、4)です。
イエスは何をしてくださいましたか。私たちの咎のために苦しみを受け、罪を背負い、十字架の罰を受けてくださいました。また、死んで死に打ち勝たれました。それによって、私たちが生きるようになるためです。実際のところ、イエスが私のために十字架でしてくださったことをしっかり受け入れることなしに、「イエスならどうするだろう」と十分に考えることはできません。
私たちは自分が何をしたかではなく、キリストがしてくださったことによって救われる。