神は自分のやったことを絶対に赦してくださらない、と考えている人に会いました。ところが、年配のクリスチャンが親身に彼を導き、1年後、その人はイエスを救い主として自らの心に迎えました。それだけでなく、彼は聖書をむさぼるように読んでいると聞き、私は大変喜びました。しかし、しばらくして彼と話したとき、彼の熱心さが不平に代わっていることを知りました。「神はなぜ悪い人たちを栄えさせ、こんなに多くの神の子どもたち(彼自身も含めての意味でしょう)が、ぎりぎりの生活をしているのを見過ごしておられるのだろう」という不満が、彼の信じる喜びを侵してしまったのです。
彼は、私たちの多くがそうであるように、キリストのあわれみがどれほど自分に必要だったか忘れてしまったようです。救われた時の感謝は色あせていました。彼の様子は、ブドウ園に雇われた人たちのたとえ話を思い起こさせます(マタ20:1-16)。この人たちの視点は、自らが仕事を得た感謝から、他人が何を得たかに移ってしまいました(10-12節)。
神は、私たちに何の恩義もありません。それなのに、キリストを受け入れるなら無償で救いをあげようと約束しておられます。神の気前の良さはそれだけではありません。この世の人生に助け主である聖霊を送ってくださり、天国で神とともに永遠に生きるための備えをさせてくださいます。不公平だと感じることがあるときは、神をしっかり見つめ、神のみことばに心を留めましょう。人に目を留めてはいけません。
満ち足りるために知らなければならないことはただひとつ。神は良いお方だということだ。
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